トウホクビジンを振り返る(1)

 彼女のことを、始めて意識したのはいつだったろうか。……などと書き出すとまるで三文恋愛小説のようだが、いくら特製メンコが可愛くとも残念ながら相手は馬である。ついでに馴れ初めだって案外覚えているもので、それはラヴェリータが勝った年のジャパンダートダービーだった。正確には前走の関東オークスで一度は目にしていたのだが、「中央500万下でこんな馬が来るわけない」と、ばっさりやってそれっきり。それが翌月も名前を目にしたので、なんだなんだ、懲りずにまた出走してきたのか、と興味が沸いた次第である。父スマートボーイに母がミリョク、そして岩手競馬での新馬デビュー。これにつけた名前がトウホクビジンなんて、センス溢れる命名も気に入った。それ以来、ご存じの通り彼女は走り続けて4年弱。気がつけば総出走数も100の大台をとうに超え、日本全国を駈けずり回った119戦。先日の岩手・盛岡競馬場で行われた重賞シアンモア記念では見事12勝目を挙げ、地方交流重賞戦線での健在ぶりを改めて我々に示してくれた。

通算119走目:2013年5月12日 第38回シアンモア記念(盛岡競馬場) 

 同じくホースケア所属・コロニアルペガサスや高知のポートジェネラルを見ればわかるように、ハードなローテーションをこなしつつ実力を維持するのは難しいもの。その点でもビジンはというと、3歳時くらいから今まで同じような水準を保っているのには頭が下がる。おそらくビジンと一緒に走った馬を挙げていくだけで、ここ数世代の地方競馬有力馬名鑑が作れるほどである。そうなると当然ながら、記憶に残るようなレースも数多い。今回はその中のいくつかを取り上げつつ、彼女の軌跡を振り返ってみることとしよう。

通算8走目:2009年1月2日 第35回金杯(水沢競馬場) 

 秋の盛岡芝1000mでデビューしたのち、年内は秋の東北2歳最強決定戦・南部駒賞(8着)を含む7戦2勝2着3回とまずまずの成績を残したトウホクビジン。今から思うとかなり常識的な出走回数だと思いきや、生産牧場のグランド牧場が11月一杯まで馬主だったから当然か。実際ホースケア所有となってからは、年末の開催で当時の岩手2歳馬ナンバー2、マヨノエンゼルに千切られた2着したあと、中5日でこの金杯競走にも出走なんて無茶もやっている。当時のビジンの脚質は完全な逃げ馬で、ここでもドロドロの馬場もなんのその、内枠からスムーズに先手を取ると、ワタリシンセイキには適わなかったが余裕で2着を確保した。一応、岩手3歳暫定格付け3位となったわけだが、冬籠もりの間タダメシを喰わせるようなホースケア様ではない。このレースを最後に笠松・山中厩舎へと転厩し、以後はこの木曽川河川敷が彼女の休息の宿となる。

トウホクビジン・ライバル馬列伝 No.1 ワタリシンセイキ
  16戦7勝、主な勝ち鞍は08年南部駒賞、09年金杯。父ビワシンセイキ、母シャトーサウザンド(母父プラウドデボネア)。この年の岩手2歳馬の総大将で、芝はからっきしだったがダートに限れば2歳時は南部駒賞を含め6戦全勝。金杯を最後にアラジよろしく2歳にして岩手競馬年度代表馬、という看板を引っ提げて川崎・佐々木厩舎へ転厩すると、初戦の準重賞・雲取賞は4着とそれなり。しかし勝ちきるにはどうも最後の一歩が足りない感じで、京浜盃羽田盃掲示板に載るのがやっと。前総崩れで大荒れとなった東京ダービーでも、インを突いてよく伸びたのだがやはり5着までだった。以後は脚部不安を発症し、一時は岩手に戻ったりもしたが出走はなし。2012年の4月にようやく川崎で復帰したものの、まったくついて行けずに競走中止してしまう。結局、この年の8月に競走登録を抹消された。

トウホクビジン・ライバル馬列伝 No.2 マヨノエンゼル
 42戦11勝、主な勝ち鞍は09年阿久利黒賞、ダイヤモンドカップ、10年トウケイニセイ記念など。父キャプテンスティーヴ、母エムケイラクル(母父フジキセキ)、近親に南関東A級のケイアイプラネットがいる。南部駒賞でワタリシンセイキと差のない2着したのち、翌年は道営から転厩してきたトウカイテイオー産駒のトキワノマツカゼとともに岩手クラシック戦線の中心を担う。最後の不来方賞船橋から遠征してきたグレードアップに破れ三冠こそ逃したが、その後も暮れのグランプリ・桐花賞で3・4歳に2着するなど、岩手A級戦線を賑わせた。

 この頃になると岩手を始め各地の出走手当がいよいよ極限まで削られ始めたため、ホースケアもそれまでのロートル馬場掃除一辺倒からの脱却を図ったのだろう。他馬主から若駒を購入し、各地の重賞戦線で走らせる戦略に打って出た。これは地方の重賞競走は多くの場合、頭数だけでもそろえるため、もとい出走自体を名誉とするため、着外の馬にも特別奨励金・割増出走手当が支給されることが多いのに拠る。またうまい具合に地全協がようやく重い腰をあげ、2000年代後半は全国・地区交流重賞の拡充と路線整備が進んでいった。さすがは目の付け所が鋭い、と感心すべきか呆れるべきか。

しかしまあ、このときグランド牧場に支払われたはずの、移籍金のお値段が気になるところである。