老兵は去らず、ただ今日も走るのみ

 一見なんの変哲もない、本日2013年9月17日の金沢競馬最終レース。しかし、このレースで夏休み明け一ヶ月ぶりにファンの前へと姿を見せた馬がいた。その名はビーファイター、中央ではめっきり数を減らしたアサティス産駒の1頭である。まあ、もともとダートで負けないタフネスさと息の長いところがウリの種牡馬であり、実際先日入障したアサティスボーイは9歳・62戦目にして初重賞を制覇したし、かのボンネビルレコードも10歳まで現役を続けていた。しかしそれにしたって、この馬は今年でなんと15歳。デビューまでこぎ着けた1998年産・8093頭のサラブレッドのうち最後まで残った現役馬であり、それは同時に日本における現在の現役最高齢馬でもある。これで通算115戦目、今期は勝ち星こそ10戦して1つだけだが、掲示板を一度も外さない安定ぶりはレースへのやる気がとっくに衰えていてもおかしくない馬齢からするとじつに驚異的。そしてこの日も、久々を感じさせないしっかりとした走りで見事な勝利を挙げて見せた。まあどんな馬でもこれだけ長く現役生活を続けていれば、万事が平坦に過ぎていったとはいかないもの。そこで、今回は老いてもなお走り続けるこの馬について、ざっと紹介させていただきたい。

3年ぶりの勝利となった今年の6月の一戦。
 ビーファイターは1998年、門別・富川牧場でその生を受けた。この年の富川牧場産で走った馬は全部で14頭とそこそこの規模だが、うち6頭はカリスタグローリ産駒というじつに極端な構成。とにかく安くてもいいから確実に売れる馬が欲しいという、苦しい台所事情が伺える。実際、同牧場の生産投数は06年産を境に半減し、09年に1頭が血統登録されたのを最後に生産馬はいなくなってしまった。血統的には母ツルオカシャモニーは道営でデビューして8戦0勝ながら掲示板5回、近親にもみるべき活躍馬はいなかったが、それでもダートで試して貰えるのがアサティス産駒のよいところ。実際に仕上がりはそれなりによかったらしく、「ビービー」の冠名で知られる坂東牧場の坂東勝彦氏が買い手に付いた。そして2000年5月、今は亡き道営札幌の認定新馬競走にて2着に1秒差をつけての圧勝というなかなかのデビューを果たす。一戦挟んで中央遠征への指定競走である旭川でのターフチャレンジでも勝ち上がると、単勝100倍近い評価を受けることとなった遠征先のすずらん賞では果敢に先行策をとっての4着と健闘した。その後はスタリオン競走のオープン戦を3戦して全て掲示板に載るそこそこの成績でシーズンを終え、美浦鈴木勝美厩舎へと転厩する。けっこうな出世といえるだろう。

 緒戦の500万下特別・朱竹賞(中山・ダート1200m)こそ6着と躓いたビーファイターだが、芝に変わった次走若竹賞は勝ったメジロキルデア(01年NHKMC5着・同年ラジオたんぱ賞3着)とハナ・クビ差の3着と再度適性をみせている。次走は小倉へ遠征し、捲る競馬で無事500万下を制して順調に勝ち上がると、次に選んだのは皐月賞トライアル・スプリングS。が、ここはさすがに1.1秒差の8着確保が精一杯だった。さて、ビーファイターの世代を確認する意味でも、この年の牡馬クラシック戦線を振り返っておこうか。前評判では長浜厩舎所属のアグネスタキオンアグネスゴールド両頭が筆頭で、そのほかたんぱ杯ではタキオンに敗れたが共同通信杯を楽勝し、トニービン産駒だけに距離の伸びた府中なら……のジャングルポケットや、バレークイーン×サンデーサイレンスという当時考え得る中でも最高レベルの良血であるボーンキング、結果的にメジロ牧場最後のGⅠ馬となった朝日杯勝ち馬メジロベイリー、そしてなによりこの年からクラシックが限定解放されることとなった外国産馬の怪物・クロフネらが控えていた。トップ層で故障ナシに順調な現役生活を送った馬が少ないため現在から振り返った数字こそやや弱いが、最終的に上がり馬として菊花賞を勝ったマンハッタンカフェ南関東三冠にJDDを加えた四冠制覇を達成しているトーシンブリザードも含め、決して弱い世代ではない。さすがに、ビーファイター程度ではここに割って入るのは荷が重すぎたか。

00年・第17回ラジオたんぱ杯3歳S。1着アグネスタキオン、2着ジャングルポケット、3着クロフネ

01年・第47回東京ダービー。ほとんど持ったままの圧勝劇。石崎隆之騎手はこれで東京ダービー3勝目。
 それでもまだまだ自己条件でなら十分に稼げただろうビーファイターだが、皐月賞前日のベンジャミンSを3着したのちは一年間の休養に入ってしまう。翌年ようやく復帰したあとはさっぱりいいところがないままで、早仕上がりだった分だけ枯れるのも早かったのかしらん……と思っていたら、降級するといきなり函館の500万下特別戦で一発再昇格を果たしてしまった。その後は幾度かの休養を挟みながら、6歳冬まで1000万下で18戦して3着が一度あっただけ。普通ならばそろそろ引退が見えてくるところだが、ひとまず馬主はそのままで2004年春、川崎・久保秀男厩舎へと転出することに。しかし緒戦のB2戦・青葉特別でさっそく2着と結果を出したのはよかったのだけれど、ここでまたまた1年以上の休養に入ってしまう。そう、ここまで読んでいただければわかるように、ビーファイターは15歳まで現役を続けているわりには意外なほどに身体が弱いのである。とてもじゃないが、イメージされるような「鉄の馬」という雰囲気はない。いや、むしろダイエー移籍以降の隔年エース・工藤公康よろしく、ある程度は休みながらやるのが物事を長く続ける秘訣なのかもしれないが。

 ちなみに2度目となったこの1年間の休養の間に、同い年でも貴重な古馬王道戦線GⅠ勝ち馬であるダンツフレームが、種牡馬入りできないまま荒尾競馬で現役復帰を果している。

02年・第43回宝塚記念。父が現役バリバリだったとはいえ、ねぇ。
 結局まともに力が戻ることはなかった彼が引退を発表した05年6月、入れ替わるようにビーファイターは古巣である道営競馬へ5年ぶりに戻っての復帰戦を迎えていた。まあ、元中央1000万下の7歳馬なら普通はまだまだやれるのが大部分の地方競馬というもので、緒戦はしっかり2着するとその後も好走を続け、9月末には3年ぶりの勝ち星まで挙げている。さらに一端勢いがつくと身も心も若返えるものなのか、シーズン最後の大一番・道営記念でも7番人気からの2着と健闘。さらには12月の船橋開催で行われていた全国交流OP戦・ふさの国OPに遠征すると、東海・南関東のA級馬らを相手にまさかの勝利を収めてしまったではないか!いや、まあ3番人気なんですけど。7歳にしてこの充実ぶり、なかなか見られるものではない。

 そして冬期休養が開けての翌06年シーズンだが、ここまでの遠征適性に林正夫調教師がいよいよ目をつけたのか。緒戦を2着で叩いた次走に選ばれたのは、岩手競馬古馬が前期の大一番・一條記念みちのく大賞典だった。まあ、まがりなりにも前年の道営記念2着馬なのだから道営代表としてもなんら問題はないのだが、どういうわけか盛岡競馬場に到着したビーファイターからは、ある大事なものが無くなっていた。嗚呼、8歳にしていまさらどうして去勢である。そりゃ種牡馬入りの可能性なんて皆無なんですから、抜いた方が色々とメリットがあるには違いないんですけどね。この仕打ちが堪えたわけではないのだろうが、ここは出遅れてしまっていつもの競馬をさせて貰えず。そして地元に戻ったのちも、5戦して2着1回3着3回とせっかくの去勢もむなしく集中力のたりな……でなくて抜群の安定感を披露している。実際問題、こういう馬っていっつも真面目に走っているのか、それとも適当に手を抜く癖があるのかどっちなんでしょう。さて、この年の道営記念で3着だったが、昨年同様ふさの国OPにもしっかり遠征を果たした(7着)。この傾向は翌07年も変わらず、7月まで5戦して2着4回3着1回。ちょっとばかり上向いたのか?もう9歳なんですけど。そして、お次はいよいよビーファイター最大の見せ場が訪れるのである。

今は亡き旭川ナイター競馬と、道営のおばちゃん実況。
 2007年8月16日、この日のビーファイターブリーダーズゴールドカップへの出走を予定していた。いわゆる「解放元年」後はGⅡ格に留まったとはいえ、かつてのこのレースは数少ない中央・地方交流競走として高い評価を受けてきた歴史のあるレースである。中央の若いやつらには敵わないにしても、地元勢の中での力を見せるには絶好の舞台となるはずであった。ところが当日になって、栗東トレセンにて1971年以来となる馬インフルエンザの集団感染が確認されてしまうのである。これにより、出走を予定していたメイショウトウコン以下中央馬4頭は急遽出走停止を喰らってしまい、賞金は据え置きのまま地元馬だけでGⅡを施行するという、統一グレード競走史上でも例のない異常事態が発生することとなった。これぞまさしく棚からぼた餅、なんてったって道営記念すら1着賞金1000万円、2着賞金は200万円というところこのレースは1着ならば4000万、2着ですら1200万円も賞金が出るのだ。手当も賞金もめっきり落ち込み経営が苦しいこのご時世、全出走馬の関係者が一挙に色めきだったことは想像に難くない。施行者側は、予想される赤字額を前にして顔面蒼白であっただろうが。そしてこの大一番、ビーファイターは勝ち星こそ当時の道営最強馬・ギルガメッシュに譲ったものの、最後まで詰め寄る強い競馬で見事に2着を切り取ってみせたのだ。繰り返しますが、9歳ですよ。勝っていればこれまた同い年のアサカディフィートと並んで、最高齢のグレード競走制覇の記録となっていたはずである。いやまあ、これは翌年の小倉大賞典で再度更新されてしまうんだけれど。

08年小倉大賞典。最後の直線部分しか動画が見つからず。
 もっとも、この乾坤一擲はさすがにちょっと堪えたらしい。林正夫調教師の勇退前最後のレースとなった次走の道営記念では、3番人気に支持されながら7着とついに地元で掲示板を外す結果に。そして師とともに現役生活にピリオドを打って悠々自適の生活……に入るはずだったのが、「まだまだ元気すぎる」の一声で2008年6月、まさかまさかの現役復帰という大ミラクルを果たしてしまった。とはいえさすがに復帰後の成績はさっぱりで、もう一度引退か……と思われた矢先、シーズン終盤になってやや持ち直し始め道営記念でも5着を確保。これはもしかしたらまだけるのか?と、冬期の活躍の場を求めて佐賀競馬へと転出した。緒戦の九州オールカマーで3着、はがくれ大賞典でも5着とA級でまだまだ勝負になる程度には復調しているところをみせると、これに目をつけたのが金沢競馬で数頭の条件馬を走らせていた小野英世氏。格付け基準上金沢ではB級で走れる利点もあり、ビーファイターはついに齢12歳にしてデビュー以来見守ってくれていた坂東氏の手を離れ、金沢競馬の鈴木長次厩舎へと拠点を移すことになる。

金沢移籍は概ね大成功だった。
金沢転出直後はもくろみ通りにB級戦で勝ち負けを続け、2010年06月8日にはふさの国OP以来となる5年ぶりの勝ち星も挙げた。もっとも、小野氏は2010年を最後に競馬から撤退したため、馬主は早々に高橋政夫氏へと交代している。その後も現役を続けられているのは、2010〜2011年の22戦中、主戦の鬼束亮騎手を背に掲示板を外したのはたったの一度だけという、驚異的な馬主孝行ぶりゆえだろう――まあ、所詮はたいした賞金ではないが――。さすがに14歳となった2012年は後期C1に降級したにもかかわらず苦戦が続くシーズンとなり、さらには同年末を最後として鬼束騎手が収入源を理由に警察官への転身を図ってムチを置き、競馬場を去っていった。ここまで幾多の別れを重ねてきたビーファイターといえども、まさか彼の方が先に引退するとは思わなかったに違いあるまい。しかし我慢した分C3まで降級した2013年度は相手が楽になったか、既に2勝を挙げているのは冒頭に述べた通りだ。こうなると、1年後に迫るオースミレパードの最高齢勝利・出走記録(16歳9月・11月)も当然ながら意識されてくるところである。とかくここまで見てきたとおり、そろそろダメかな……というタイミングでしっかり好走してしまうあたり、なかなかにわかっていらっしゃるお馬なのだ。大記録達成を前にすれば、いきなり絶好調になっても不思議ではあるまい。

 決して、強い馬ではなかった。無事是名馬というほどに、丈夫なわけでもありはしない。それでもビーファイターは誰よりも長く走り続ける。せめていつかは必ず訪れるだろう、競馬を終える日の彼が、幸福のうちにあらんことを願いたい。