高知競馬場遠征記


じつはここからもけっこう歩く。
 私が高知競馬場を訪れるのは、これが2回目のこととなる。ちなみに前回の旅打ちはというと、ちょうど高知競馬が虎の子の基金をつぎ込んで照明を整備し、通年ナイターへと踏み切ってから半年ほどした2010年3月の開催。高知駅前の観光案内所で競馬場を通る路線バスについて聞くと*1はぁ、競馬場ですか?……失礼ですが、どちらから?」なんて案内嬢に地声で返され――ただし彼女はじつに優秀で、すぐに競馬場行きのバスの停留所と発車時刻をそらんじてくれた――、ようやく辿り着いた競馬場ではナイター開催の副作用(?)にすっかり参った。南国高知とはいえまだまだ寒さの残る3月上旬、薄暗いコンクリ造りのスタンドには遠く大井の併売中継を囲むおっちゃん・じっちゃんらが十数人に、ヤンキー風のカップル・親子が二・三組、あとは仕事上がりだろう作業着を着た兄さんが一人だけ。そのほかに姿が見えるのは、ぼんやりと座って客を待っている屋台のおばちゃんくらいか。物理的にも心理的にもじつに寒々しいもので、そこにお世辞にも駿馬とは言えない馬たちが、乾きの悪い不良馬場をドタドタドタと鈍く駆けていく。当時は南関東で相次ぐ不祥事をやらかして追放状態だった御神本騎手が半ば懲罰的に高知へ流されていた*2イメージもあり、こいつはおれもずいぶんと果ての方まで来ちまったなぁと、200円のアイスクリンをかじりながらしばし感慨に浸ったものである。

一時期はネット中継で狂ったように流れていたよさこいナイターのCM。わりと耳に残る良作だとは思う。
 しかしあれから時は流れ、背水の陣のバクチに勝った高知競馬は売上面で絶好調。馬の方も当時からポートジェネラル*3あたりは頑張っていたが、今やグランシュヴァリエ*4を総大将とする高知競馬の遠征軍団はすっかり地方競馬界で定着した。日頃からナイターで馬券的にもお世話になっていることもあり、今度は高知競馬場が一年でもっとも賑わうだろうダートグレード競走黒船賞の日に合わせて再訪した次第だ。

さすがに、この日のパドック高知競馬場とは思えぬけっこうな賑わい。入場者数は3000人を超えたという*5

高知競馬場は子供用の遊具が全国でも屈指に多い(これは入場門入ってすぐ、そのほかパドック裏にもブランコなどが設置されている)。チャイルドルームも広々としており、おそらくナイター化以前は「ファミリーで楽しめる競馬場」を経営戦略の軸に据えていたのだろう。

もともと動員数は多くなかったとはいえ、ナイター化で売店などが大きな打撃を受けたことは想像に難くない。この並びに前回は「ハルウララ記念館」みたいなものが設けられていたが、あの狂騒から10年が過ぎた今ではさすがに残っていなかった。

パドック脇の馬頭観音*6のそばに建てられたマンペイ*7の記念碑。「マンペイ記念」として長くその名だけが伝わる*8
 第2レース前に競馬場に着くと、人の多さに驚きながら場内をふらふらと歩く。それほど変わっているところはないのだが、ひとつだけ前回はなかったものを見つけた。それが、2010年から新設されている「福永洋一記念」の開設記念碑*9。ここ高知で生まれ育った福永兄弟は長男甲と四男洋一が中央・京都競馬場、次男二三雄は大井*10、三男尚武は船橋*11でそれぞれ競馬の道へと進んだ。毎年このレースの際には車イスで洋一氏本人が来場し、2012年には「花の馬事公苑十五期生」の同窓会まで開催している。早くも高知競馬場の名物レースの一つとなっているだけに、こうした記念碑がきちんと設けられているのは良いことだ。そしてこの日の第3レース、交流戦・はりまや盃では、祐一が父の故郷で綺麗に回っての逃げ切り勝ち。入線直後に実況の名物・橋口アナが、すかさずこれが彼の高知競馬場での嬉しい初勝利だと補足したので、周囲の観客からもよかったねとの声がそこそこ。前座としてはまずまずの結果となったお次は、いよいよパドック黒船賞の周回が始まる。一時期は経営難から募金で賞金を集め、それでも足りなく開催休止の時期まであったこの重賞。それを思えば、安心してレースを開催できる今はよくぞ持ち直したものだなぁ。


祐一の友人一同というあたり、人望の高さが伺える。

まだまだ現役の黒板掲示。きれいな字だ。

一番人気のドリームバレンチノ。鞍上はサルデーニャ島出身、ダリオ・バルジュー騎手。

大井・高橋三郎厩舎から高知入りすると、雑賀親子によって大復活を果たした地元の星・エプソムアーロン。鞍上は「赤い彗星」永森大智騎手。

どちらかといえば北海道の印象が強いのだが、一応は福山競馬最後のグランプリを制したビーボタンダッシュ。メンコには「FCK(FUKUYAMA CITY KEIBA)」の文字が。鞍上は騎手会長・イン捌きの達人西川敏弘騎手。本橋孝太騎手の高知時代の大恩人だ。

現役女性騎手でも屈指の実力者である「魔法少女」「まいーご」こと別府真衣騎手とトーホウカイザー。

だが、レースを制したのは岩田康誠騎手騎乗・セイクリムズン。これで同一重賞3連覇を達成した。エプソムアーロンは展開が向かず8着に惨敗。
 黒船賞が終わるとさすがに帰っていく方も多いが、この日は全11レースでの開催だ。黒船賞は第4レースだったから、高知競馬の一日はまだまだ始まったばかりである。ただし変則開催中なこともあってか、絞りづらい難解な番組が続く。ならばせっかく本場にいるのだから、妙に勝負に徹するよりは小銭でちょいちょいっと遊ぶに限る。陽が落ちても明るく照らされたパドックに腰を下ろし、のんびり周回を眺めながらブタ串(100円)・おでん(2本100円)でビールや熱燗をいただく気楽さは、誰だって一度味わったらやみつきになることを保証したい。じっさい経営的にはよくないのだろうが、周囲の様子も切った貼ったの鉄火場にはほど遠い雰囲気だった。女性の2人組がレースのたびに別府騎手に声援を送り、逃げたりしようものならもう大騒ぎ。じいさん・ばあさんらはというと、まるで孫の話でもするような調子で落馬負傷した下村瑠衣騎手*12の心配をしている。パドックで小さな子供が3人ほど遊んでいるので親の姿を探してみると、すぐうしろに祖父母・息子に嫁と三世代がそろい踏み。漏れ聞こえてくる話を総合するに、所有馬が出走するのを一家総出で見に来たらしい。うぐいす色の鳥打帽にシブい顔をして競馬新聞を見つめるオールド・スタイルの祖父から、馬よりも自分らの追いかけっこに夢中な孫世代まで、この競馬に対する距離の近さはじつに楽しい。

 消費税増税控除率の変更を間近に控え、また当分経営的には難しい局面が続くだろう。それでも、最悪の時期からここまで持ち直せた高知のことだ。この競馬場を愛している人々がいる限り、あの素晴らしい競馬場での時間が、いつまでも流れ続けてくれると信じたい。

この写真じゃわかりにくいが、内馬場が貯水池(?)になっているのも特徴的。

*1:当時は経費削減のため、競馬場への無料送迎バスが出ていなかった。

*2:表に出ている限りでは、調整ルームからの無断脱走が原因という。http://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2009/09/14/kiji/K20090914Z00001770.htmlパドックでにこやかに厩務員さんと話しているあの勝負服を、久々に見た時はなかなか感動したもの。ちなみに、御神本と宮川(兄)は教養センターの同期で非常に仲がよかったりする。

*3:一時期の短距離交流重賞で特攻逃げをぶちかましていた、雑賀正光厩舎の斬り込み隊長(道営に移籍していた時期もあったが)。前回の遠征時には、この馬が黒船賞の前哨戦を楽勝していた記憶がある。主な戦績に10年の黒潮スプリンターズカップ、09・10年の東京スプリントで4着など。

*4:言わずと知れた「地方競馬最強馬」。馬主の縁でまだまだお釣りのあるうちに中央1000万下から転入すると、緒戦から川崎・報知オールスターカップに遠征し2着。その後も各地を転戦し、10年の南部杯では当時GⅠ級レース5連勝中、BCクラシック遠征を控えていたエスポワールシチーに2馬身差まで迫る3着の大大健闘。翌11年の大井開催・JBCクラシックでも地方馬最先着の4着だったが、その際に高知競馬の公式に踊った文句が冒頭のそれである。そのほか勝ち鞍に、12年福山・ファイナルグランプリ、12・13年の地元グランプリ・高知県知事賞など。

*5:通常、高知競馬場の入場者数は500人前後を推移している。売上が伸びてからもその多くは遠隔地からの電話投票によるもののため、動員数はほとんど変わらない。

*6:これは、最近福山の廃止後南関東を経て出戻ってきた佐原騎手の父上が建てたものだとか。http://homepage2.nifty.com/morimo-kochi/manpei.html

*7:「国有種牡馬」と彫られているように、高知への貸与種牡馬として馬産に大きな貢献を果たしたらしい……が、いかんせん大昔過ぎて情報がない。http://www.jbis.or.jp/horse/0000455642/

*8:最後はアングロアラブのクラシック競走として施行も、04年を最後に廃止。

*9:以下碑文全文。
「 昭和四三年に中央競馬にて騎手デビュー、以後九年連続で全国リーディングジョッキーを獲得、そして従来の常識からはかけ離れた数々の騎乗から『不世出の天才』と称された福永洋一は、騎手時代の功績を認められ、騎手顕彰者に選出され中央競馬の殿堂入りを果たした。
その同氏の業績をたたえ福永洋一記念を開催する高知競馬場に深く感謝し、ここに記念碑を建立する。
  平成二十五年四月吉日
   贈 福永祐一 友人一同」

*10:騎手時代は全盛期のヤシマナシヨナルの主戦。調教師としては大井時代のイナリワンを管理するなど、調騎の双方で一流の成績を残した。最後まで現役のまま、05年に62歳で死去。昨年、娘婿の福永敏調教師が開業している。http://nankandamasii.jugem.jp/?eid=5366

*11:南関東で新進気鋭の若手として活躍していたが、1968年に八百長に関与したとして逮捕・追放処分。http://blog.livedoor.jp/youkouzan1/archives/50139033.html。重賞勝ちとしてハロータイムに騎乗しての67年川崎開設記念、68年報知グランプリカップ

*12:「瀬戸内の奇跡の妖精」、場内では「るいちゃん」と呼ばれていた。道営でデビューも伸び悩んでいたが、LJSの福山ステージで好走。廃止直前の2013年1月には福山に正式な移籍を果たしている。廃止後は所属の那俄性調教師とともにそのまま高知競馬場へ移った。LJS当時にhttp://d.hatena.ne.jp/glay222/20111220/1324344217のエントリーを書いているので参照されたし。