アングロ・アラブの神々がいた時代――ホウセント・フクパーク考


ホウセントと馬主の白井新平氏(左)。騎乗しているのは引退レースを乗った田中利衛調教師*1、同馬の主戦の須田茂騎手は一門。自身は北関東の名門塩野七郎氏の流れで、戦中は朝鮮半島に渡りかの地の競馬で暴れまくったという*2。写真出典:競週社『競週地方競馬』1955年2月号表紙より引用。
 先日久しぶりに国会図書館へと出向いたところ、ふとこのブログのネタ元として何度も使っている『競週地方競馬』を眺めたくなった。ささっと検索をかけて適当に出庫を頼もうとすると……おやなんと、昨年まではたしかに無かった1955年分の同誌がリストの中に。どうやら、今ごろになってどこからかひょっこり出てきたものを律儀にも製本してくれたらしい。当然大喜びで読ませて頂いたのだが、もとより史料に面白い話があればなにかしらまとめたくなるのが性分。中でもこのうちの2月号で、南関東競馬における伝説的なアングロアラブ・ホウセントについての詳細な特集記事が組まれているのを見つけたときの感動といったら!あまりに古い時代のため、とにかく滅法強かったらしい*3という以外にはろくすっぽ情報がない馬で、某大百科のアングロアラブの項目*4では「地味」とまで書かれてしまっているこの馬。そもそもこの記事を見つけるまで、私は同馬が競週社の創始者である白井新平*5の所有馬であることすら知らなかった。この特集記事は馬主の新平ほか管理調教師の高木清*6、主戦の須田茂騎手とその所属調教師である田中利衛調教師、そして高木が不在の際に同馬の管理を代行していた小暮嘉久調教師の5名による座談会形式。ともに同じ馬に接してきた人間同士の会話であれば、内容もある程度は信頼に足ることだろう。なによりさすがは白井新平、この馬を巡るお話はまったく地味なんてもんじゃない。ということで、今回はこのホウセントを中心にあれこれと書いていくことにしよう*7
ホウセント全戦績*8
南関東:58戦39勝2着8回3着5回(うち対サラ系14戦5勝2着4回3着4回) 獲得賞金573万円。
国営:5戦3勝3着2回(うち対サラ系3戦2勝3着1回) 獲得賞金44万5000円。
通算:63戦42勝2着8回3着7回。獲得賞金617万5000円。

出走日 場名 レース名 頭数 着順 騎手 斤量 距離 時計 着差 勝ち馬(2着馬) 賞金(単位:万円) 備考
1952.08.27 大井 三歳ロ 9 1 須田茂 53 800 53.2 (1 1/4) (ダイニキンシコウ) 3.5
1952.09.11 大井 三歳イ 8 1 須田茂 53 800 51.4 (3/4) (コーコーハクハヤ) 3.5
1952.09.29 川崎 全日本三歳S 10 2 山下 53 1400 1:32.8 3 1/4 キングフオード 8
1952.10.06 船橋 金の星 9 1 佐野 53 1200 1:17.4 (1 1/4) (ホシカゼ) 16
1952.11.08 船橋 金の星 7 1 佐野 55 1200 1:19.0 (11/2) (キングフオード) 17  
1952.11.22 大井 三歳イ 7 1 佐野 57 1000 1:04.0 (1 1/4) (ホシカゼ) 6
1952.12.04 大井 三歳特別 11 1 佐野 58 1200 1:18.1 (1/2) (クーバ) 16
1953.01.02 川崎 新春ハンデ 7 4 1600 1:48.2 10 1/4 イソザクラ 4
1953.01.06 川崎 D2・3選抜 9 1 須田茂 55 1400 1:34.1 (1) (スズキヨ) 10
1953.01.16 大井 D2イ 7 1 須田茂 56 1400 1:33.0 (アタマ) (ハルミドリ) 5  
1953.01.23 船橋 ホープ 7 6 1600 ミハタオー   発馬直後鼻出血
1953.01.28 大井 D2選抜 7 2 須田茂 57 1600 1:46.7 2 ハツピーシカオイ 4  
1953.02.03 大井 D2イ 5 1 須田茂 57 1400 1:32.0 (3/4) (ハツピーシカオイ) 5
1953.02.12 大井 D2勝入 11 1 須田茂 58 1400 1:32.0 (アタマ) (ハツピーシカオイ) 8
1953.02.18 川崎 D1・2選抜 9 1 安藤 57 1600 1:47.0 (2 3/4) (ハツピーシカオイ) 12
1953.02.25 川崎 D1 9 1 須田茂 55 1600 1:47.3 (アタマ) (マツキクヒカリ) 5.5
1953.03.01 川崎 D1・D2選抜 7 1 須田茂 57 1600 1:47.0 (1/2) (ハツピーシカオイ) 12  
1953.03.07 船橋 C・D1 5 1 須田茂 57 1600 1:49.2 (1/2) (アオヤギ) 7  
1953.03.11 大井 D1 5 1 須田茂 59 1600 1:49.1 (アタマ) (マツキクヒカリ) 5.5  
1953.03.14 大井 D1勝入 5 1 須田茂 60 1600 1:49.0 (3/4) (トサミノル) 10  
1953.04.14 大井 C 8 1 須田茂 55 1600 1:46.4 (1 1/4) (シゲリユウ) 6
1953.04.19 大井 B・C勝入 6 1 須田茂 55 1600 1:46.0 (1/2) (シユーテイングスター) 12  
1953.04.27 大井 C 8 1 須田茂 57 1600 1:47.0 (1 1/4) (シゲリユウ) 6
1953.04.30 大井 B・C勝入 7 1 須田茂 56 1600 1:50.1 (3/4) (スターズ) 12  
1953.05.12 大井 B・C勝入 6 1 須田茂 55 1600 1:47.2 (1/2) (タイカン) 12  
1953.05.16 船橋 銀の鞍 11 1 須田茂 59 1800 2:00.0 (1/2) (シゲリユウ) 20  
1953.05.21 大井 ワード賞 7 1 小林元 50 1800 1:59.2 (1 1/4) (シーゲル) 20  
1953.06.10 船橋 銀の鞍 5 1 須田茂 53 1800 1:57.4 (3/4) (トキヒカリ) 20  
1953.06.17 大井 アラA特別 5 1 須田茂 55 1800 1:59.1 (1/2) (ダイイチミネフジ) 20  
1953.07.04 川崎 白百合賞 6 1 須田茂 57 1800 1:58.4 (アタマ) (タイカン) 20  
1953.07.19 浦和 栄冠賞 5 1 須田茂 59 1800 1:58.2 (アタマ) (シーゲル) 25  
1953.09.29 大井 千鳥賞 8 3 須田茂 61 1800 1:58.9 アタマ+4 ミネツバキ 6  
1953.10.06 船橋 銀の鞍 6 1 須田茂 61 1800 1:59.0 (1/2) (コウシン) 17  
1953.10.12 川崎 白百合賞 10 4 須田茂 62 2200 2:26.0 3/4+ハナ+8 ホウランド 4
1953.10.29 大井 OP特別 7 1 田中利 62 1700 1:52.1 (5) (タイカン) 20
1953.11.23 大井 OP特別 9 2 須田茂 64 2000 2:11.1 2 ダイイチヨシマサ 10  
1953.11.30 船橋 銀の鞍 10 1 須田茂 64 1800 1:59.2 (3/4) (ダイイチメイジ) 17  
1954.01.10 中山 アラ系 6 1 渡邊正 60 2000 2:12.3 (3) (トヨボー) 9.5  
1954.03.05 中山 アラ系 5 3 渡邊正 60 1800 2:04.6 アタマ+1 1/4 タフガイ 2
1954.03.27 東京 サラ系 10 3 渡邊正 55 1800 1:54.3 アタマ+アタマ アヴエマリヤ 3
1954.04.05 中山 サラ系 7 1 渡邊正 56 1700 1:47.4 (1 1/2) (トワマサ) 15  
1954.04.24 東京 サラ系 4 1 渡邊正 57 1600 1:10.3 (3/4) (ワカミドリ) 15  
1954.05.11 大井 OP特別 5 1 須田茂 65 1800 1:58.3 (1/2) (タイカン) 20
1954.05.30 大井 短距離特別 6 1 須田茂 56 1400 1:29.0 (12) (コメツトワイ) 12 レコード
1954.06.17 大井 サラ系C1特別 6 2 須田茂 55 1600 1:43.8 2 イザミー 1
1954.07.28 大井 サラ系C1 5 2 須田茂 56 1600 1:43.3 アタマ マサムネ 3  
1954.08.01 大井 サラ系C1特別 6 1 須田茂 55 1600 1:42.2 (2) (マサムネ) 12  
1954.08.29 大井 サラ系B2 9 3 須田茂 55 1600 1:44.0 3+アタマ フアストロ 2  
1954.09.02 大井 サラ系B2特別 5 3 須田茂 55 1700 1:50.2 10 フアストロ 3  
1954.09.13 川崎 サラ系B2 6 1 須田茂 55 1600 1:44.3 (3/4) (マサムネ) 8  
1954.09.21 大井 サラ系B2 7 1 須田茂 56 1600 1:43.1 (1 3/4) (マサムネ) 8  
1954.09.30 川崎 サラ系B2特別 8 1 小林元 57 1600 1:44.0 (2 1/2) (フクパーク) 15
1954.10.06 大井 OP特別 5 2 田中利 68 2000 2:11.1 ハナ ホウランド 7 3着フクパーク(1 1/2差)
1954.10.23 川崎 サラ系B特別 9 3 須田茂 55 1800 1:56.7 1/2+3 イワテホープ 4
1954.10.29 大井 OP特別 6 1 田中利 67 2000 2:10.3 (アタマ) (ホウランド) 20
1954.11.09 大井 千鳥賞 5 4 田中利 68 2000 1:12.0 9 オマタドロツプス 3  
1954.11.27 川崎 白百合賞 8 4 永井 68 1600 1:45.5 7 1/2 フクオー 2.5  
1954.12.07 大井 サラ系B特別 6 3 永井 55 1800 1:46.0 ハナ+8 フアストロ 4  
1954.12.12 浦和 サラ系B勝入 6 2 永井 55 1600 1:43.3 1/2 シンタカラ 4.5  
1954.12.19 大井 サラ系B 5 2 須田茂 55 1600 1:43.5 1/2 ミスアサヒロ 4
1954.12.31 大井 サラ系B 8 7 須田茂 55 1600 クモゼキ
1955.01.11 川崎 サラ系B1 5 1 須田茂 56 1600 1:44.1 (1 1/4) (トウルボーイ) 10
1955.01.16 大井 千鳥賞 7 1 田中利 68 2000 2:11.4 (3/4) (オマタドロツプス) 25  

 ホウセントは1950年5月13日、日高荻伏の齋藤喜作氏によって生産された。父はアラブの名種牡馬である方景、その父父アスフオードはプリメロの全兄。母ラッキーバラッケ、母父バラツケー、母母盛仙。アラブ血量39.06%。門別の市川嘉平氏が育成を手がけたのち、「日高50年来のアラブの最高傑作」の評判を得て日高2歳セリの上場最高価格・72万円で「昼夜通信事業部」に落札される。この「昼夜通信事業部」では高木調教師が以前から馬の仲買を手がけており*9、もともと新平の個人馬主業はその余りを所有することから始まった。だが、こんな高値のつくような評判馬が売れ残りで新平へ回ってくるはずもなく、これは新平が高木に「一寸いたずらをしてみる」ため特別に手配してもらったなかの1頭だった*10。その理由として、新平は当時の国営競馬が抽選馬の購買をする際の横暴で権威主義的な姿勢を目の当たりにしたこと*11、そして国営側のアングロアラブ競馬軽視に対する反発を挙げている*12。曰く、「国営のアングロアラブ購買における優先権の一角を突き崩すことが、日本の競馬の将来のために、必要だと考えていた」とのこと。

 このように、元々ほとんど国営への嫌がらせ(?)のために購入した馬であったから、新平も自身で走らせることへのこだわりはなかったようだ。「国営競馬が方針を変更するなら実経費で提供してもよい」し――いやはや、ものすごい言い草だな……――、川崎や大井で抽選馬に組み込むのというのならこれまたその用意もあったという。だが、ちょうどこのころ新平は渡米して十数頭のサラブレッドを購入し、どうせならと一括して馬主・生産業へと本格的に乗り出していく*13。このアラブらも、その流れでそのまま新平所有で走ることになった。だがのちにホウセントが4歳になった時分にも、ほかのアラブ2頭*14も併せワンセット500万円(!)でどうか、という話があったようだ。結局値段の点で折り合わず、そのまま流れてしまったようだが。

 とまあ、幼駒時代からそんなごたごたを背負っていたホウセントだが、3歳の6月に大井競馬場に入厩すると、いよいよデビューへ向けた本格的な調教が始まる。だが、その印象は馬産地でのそれからすると期待外れのものだった。須田騎手が語ったところによると「高木さんから乗ってみよといわれたと時、あれは病馬ではないかといったくらいだ。一見おとなしいというより、むしろ活気がないくらいだった。角馬場に乗っていっても、全然気合いがない」というほど。攻め時計も僚馬ラミーホープに及ばず、能力試験でも1番手の馬からかなり離された結果に終わる。これはもしや、評判倒れの高馬をつかまされたのでは……と関係者一同気が気でなかったろうが、いざ実戦になると別の馬のような闘志をみせて2連勝。とにかく勝負所がわかっている馬だったとは関係者一同が一致するところで、ハナにたてば自分で勝手に息を入れておき、後ろから他の馬の蹄音が迫ってくるとまたすぐに速い足を使い出す――まあ、早い話がソラを使う馬だったと――。その伝えられる強さのわりに着差が小さく、レコードでの決着もほとんどないのは*15、そんな頭の良さに拠るのかもしれない。

 3走目の川崎・全日本三歳ステークス*16ではキングフオードの2着に敗れたものの、船橋では同馬にきっちり勝って4連勝で3歳を終える。すぐさま古馬格付けに編入されると、初戦の新春ハンデは落としたが同開催2走目の条件戦では勝ち星を挙げた。それからも鼻出血での大敗があったりでやや手間取ったが、2月に入ってからはもう、7月浦和の栄冠賞までA級6戦を含む19連勝で大暴れ。あっという間に、当時の南関東アラブの頂点へと君臨する。休み明けの千鳥賞で3着に敗れて連勝がストップしたあとは、斤量が60kを超えることが常態化したこともあり連勝続きとはいかなくなったが、それでも決して大崩れはしていないあたりは本当に強い。そして11月末の船橋・銀の鞍で64kを背負って勝利を収めたのを手土産に、ホウセントは国営競馬への殴り込みを敢行する。抱くは公営・南関東の誇り、目指すは日本最強アラブの名か。

 年明けの中山開催で、いきなりの60kをものともせずにホウセントは国営初出走を痛快な勝利で飾った。この馬のセリ当時の背景を考えるなら、たかが条件戦の1勝でも国営側にとっては悪夢というべき事態であろう。そもそも国営アラ系競走に自由購買馬が出走できたというのも制度的には判然としない話で、地方から国営へ転入してくるということ自体が、完全に想定の範疇外であったのではないだろうか。まあそのあたりの正確な経緯は現代からはもはや知るよしもないが、けっきょく2回走らせただけで、国営側はアラブ自由購買馬のアラ系平地競走への出走を拒否を決定してしまった。一般的にその理由は「国営側が強すぎる地方のアラブの流入を恐れたため」とされているが、この流れを見る限りはホウセントの強さ自体よりも、白井新平という「煩型の目の上のたんこぶ」の存在が与えた影響の方を穿ってしまう*17。……しかしさすがは新平、転んでもタダでは起きななかった。それならばとホウセントをサラ系のレースに出走させると、3戦して2勝の大戦果。「南関東の自由購買アラブここにあり!」を国営競馬関係者にたっぷりと見せつけてから、ホウセントは4月末の東京開催を最後に悠々と大井競馬場へ凱旋する。結果的に、わずか半年にも満たない国営競馬への短期移籍だった。

 かくして、白井新平とホウセントによって、中央競馬におけるアラ系平地競走への抽選馬以外の出走の道は閉ざされた。ある意味ではこれによって、抜けた強さを見せれば必然的に高い賞金と名誉を求めて中央競馬へと移籍していくサラブレッドたちとは違った、地方競馬による独自のアングロアラブ競馬・以後40年間あまりの礎が、歴史的にはっきりと形成されたと見ることもできるだろう。ところが、じつはこの「強すぎて中央から閉め出された地方出身アラブ」伝説を持つ馬はもう1頭いるのだ。その名はフクパーク、兵庫競馬黎明期の伝説的な名馬であり、こちらもその名を冠した兵庫の抽選馬限定重賞・フクパーク記念の存在によって長らくファンの間で記憶されてきた。一説に拠れば通算62勝を挙げ、参考記録ながら軽種馬では未だ日本競馬史上最多勝利記録の持ち主だとか*18。そして少しネット上で調べたなら、フクパークとホウセントは南関東で互角のライバル関係にあったとの記述にもぶつかる。ふむ、では実際のところはいったいどうだったのだろうか?こちらの方にも、しばし目を向けてみることにしよう。
フクパーク(中央名キノピオ)の戦績(不完全版)*19
兵庫:34戦30勝2着3回? *20
南関東:44戦22勝2着11回3着3回(うち対サラ系10戦4勝2着4回)*21
中央:18戦10勝2着4回3着1回(うち対サラ系9戦5勝2着2回、アラ系障害9戦5勝2着2回3着1回)*22
通算:96戦62勝2着17回3着4回?

出走日 競馬場 R レース名 頭数 距離 着順 1着馬(2着馬) 勝ち馬の時計
1953.10.19 大井 10 D級勝入 8 1600 1 (アイウラ) 1:36.4
1953.10.29 大井 08 D 8 1500 1 (ダニーホープ) 1:39.3
1953.11.01 大井 10 CD特別 7 1600 1 (ヨシマサ) 1:45.2
1953.11.06 川崎 09 D 7 1600 1 (ハヤヒカリ) 1:46.4
1953.11.09 大井 12 D 8 1500 1 (ラミーホープ) 1:39.1(レコード)
1953.11.12 大井 11 D 7 1600 1 (アイウラ) 1:45.2
1953.11.20 大井 10 C 7 1600 1 (タチバナ) 1:45.2
1953.11.26 大井 09 C・D級勝入 6 1600 1 (二ユーヤング) 1:44.2
1953.12.04 川崎 11 白百合賞 11 1600 2 ダイイチヨシマサ (1:44.8)
1953.12.11 大井 11 OP特別 7 1700 1 ホウランド 1:50.0
1953.12.23 大井 11 OP特別 12 1700 3 キタカラ (1:51.0)
1953.12.29 川崎 11 白百合賞 9 1600 3 シーグル (1:45.1)
1954.01.03 大井 11 千鳥賞 8 2000 2 ヨシマサ (2:21.2)
1954.01.07 浦和 11 栄冠賞 5 1600 1 (シーグル) 1:45.0
1954.01.22 大井 11 OP特別 7 1800 2 ホウランド (1:58.2)
1954.01.26 川崎 11 白百合賞 5 2000 2 ダイイチヨシマサ (2:12.1)
1954.02.06 大井 11 OP特別 6 1800 1 (ホウランド) 1:58.8
1954.02.14 川崎 11 白百合賞 6 2400 1 (ホウランド) 1:40.8
1954.02.18 浦和 11 栄冠賞 5 1600 1 (ギンザバイ) 1:43.8
1954.02.25 大井 11 OP特別 5 1800 3着以下 シーグル (1:44.3)
1954.03.05 浦和 11 栄冠賞 5 1600 1 (タイカン) 1:45.4
1954.03.14 大井 11 ワード賞 8 1800 2 イカ (1:57.4)
1954.03.20 川崎 11 白百合賞 8 2000 1 (タイカン) 2:13.1
1954.03.30 大井 11 ワード5マイル 6 1800 3着以下 イカ (1:58.1)
1954.04.04 浦和 11 E 9 1600 1 (シノグル) 1:44.4
1954.04.12 川崎 11 OP 6 2000 1 (タイカン) 2:14.0
1954.04.17 大井 11 A級OP 8 1500 1 (シーグル) 1:37.8(レコード)
1954.05.01 大井 11 A 1800 2 イカ (1:58.0)
1954.05.06 川崎 11 A 2000 3着以下 トキヒカリ (2:21.3)
1954.05.25 浦和 11 栄冠賞 1600 2 オマタドロツプス (1:44.1、レコード)
1954.06.02 大井 11 特別 2000 4着以下 トキノサンダー (2:12.2)
1954.06.19 大井 11 サラ系B特別 1600 1 (ムーンウエーブ) 1:43.1
1954.06.28 川崎 11 サラ系B級 1600 2 ムーンウエーブ (1:44.0)
1954.07.03 大井 11 サラ系B級 1600 1 (イリカール) 1:43.0
1954.07.09 船橋 10 サラ系B級 1600 1 (シマリユウ) 1:45.2
1954.07.12 川崎 11 サラ系B級 1800 1 (キングセカンド) 1:57.4
1954.09.16 船橋 11 サラ系B 7 1600 2 グランドトーキー (1:41.2)
1954.09.25 大井 11 サラ系B級特別 5 1700 3着以下 イワテホープ (1:49.2)
1954.09.30 川崎 11 日刊スポーツ賞(サラ系B級特別) 8 1600 2 ホウセント (1:44.0)
1954.10.06 大井 11 A級オープン特別 5 2000 3 ホウランド (2:11.1)
1954.10.11 浦和 09 サラ系B級 5 1400 3着以下 サンダーメリー (1:30.8)
1954.10.15 船橋 11 キング賞 5 1600 2 ダイイチヨシマサ (1:43.8)
1954.10.26 川崎 10 サラ系B 7 1600 2 アシガラヤマ (1:44.0)
1954.11.02 浦和 11 栄冠賞 6 1600 3着以下 オマタドロツプス (1:43.0)
出走日 競馬場 R レース名 頭数 距離 斤量 騎手 着順 1着馬(2着馬) 勝ち馬の時計
1954.12.12 阪神 07 サラ系条件 8 1600 53 所田 1 (リーガルライト) 1:41.0
1955.01.03 京都 07 サラ系条件 8 1700 1
1955.01.15 京都 08 サラ系勝入 7 1700 52 宇田 3着以下 トキチドリ (1:46.0)
1955.02.20 小倉 05 サラ系条件 7 1800 56 宇田 1 (オール) 2:00.2
1955.04.30 京都 08 サラ系条件 6 1700 52 二分 1 (ホワイトランド) 1:48.4
1955.05.08 阪神 09 サラ系条件 5 1800 54 宇田 1 (キミカゼ) 1:55.1
1955.06.04 京都 10 サラ系特ハン 7 1800 51 宇田 3着以下 バンダービー (1:51.1)
1955.06.12 京都 07 サラ系条件 6 1700 55 宇田 2 マスラン (1:47.4)
1955.06.26 京都 07 サラ系条件 7 1800 53 宇田 2 コウカイ (1:53.3)
1955.10.22 阪神 02 障害 7 2380 63 浅見 2 ハツヒサ (2:43.4)
1955.10.29 阪神 06 障害特別 11 2600 62 浅見 1 (フライヤー) 2:58.4
1955.11.13 京都 03 障害 7 2400 62 宇田 4着以下 サトヒカリ (2:50.3)
1955.12.24 阪神 06 障害特別 8 2600 66 須田 1 (ザルソカィン) 2:57.4
1956.01.07 京都 02 障害 4 2470 64 柴田 1 (ダイトク) 2:53.4
1956.03.10 阪神 02 障害 4 2380 67 柴田 3 ワカトヨ 2:44.4
1956.03.24 阪神 06 障害特別 4 2600 68 柴田 1 (ハチサカエ) 2:58.2
1956.05.05 阪神 07 アラブ大障害 5 3800 64 柴田 2 ハチサカエ 4:28.0
1956.08.04 中京 03 障害 9 2000 65 宇田 1 (ユキシロ) 2:21.0

 フクパークについて、残されている史料はほとんどない。だが、ひとまず兵庫競馬で抽選馬*23としてデビューしたのち、4歳の秋に南関東競馬へと転入してきてからはある程度その戦績を追うことが可能である。10月19日のD級勝入戦*24で1着すると、レコード更新1回を含む8連勝であっという間にA級まで駆け上がる。ちょうどホウセントの国営移籍と入れ違いになるタイミングでのOP入りだったが、そんな中でもホウセントを破ったこともあるダイイチヨシマサやホウランド、そして安定した実力を誇っていたシーグルにタイカンといった当時の南関東アラブ上位陣と、互角以上の闘いを繰り広げていく。ホウセントが国営から大井に戻ってきたとき、迎え撃つ一番手は未だ勝負付けの済んでいないこの馬しかいない、と目されたとしてもそれほど不思議ではないだろう。ホウセント・フクパークのライバル説は、一応はそれなりの裏付けがあると言える。

 しかし、この2頭の歯車はなかなか咬み合ってくれなかった。ホウセントは5月に大井に戻ると、まずは65kを背負いながらも大井のOP特別を勝利。次走となった短距離特別戦はもとより格下が相手であり、斤量が別定の56kで走った場合のホウセントの強さを、見物するためだけにしつらえられたようなレースだった。その結果はというと、生涯で唯一となる大差勝ち、しかもこれにはレコード更新のおまけまで付いてきた。怪物っぷりにいよいよ磨きがかかり、未だ南関のアラブの頂点は自分であることをたった2戦で知らしめたのである。一方フクパークの方はというと、斤量面での厳しさが増していくにつれて次第に精彩を欠くようになってしまう。5月6日の川崎では伏兵トキヒカリにホウランドともども打ち負かされ、次走・浦和の栄冠賞では一歳下の新興勢力・オマタドロツプス*25にレコードで敗れている。大井の特別戦でも馬券外へと沈んでしまい、こうなると打倒ホウセントどころではない。

 明暗が分かれたそれぞれの思惑は違っただろうが、奇しくも同じ第11回大井競馬開催にて、この2頭はサラ系競走へ挑戦する。珍しくすれ違うことなく道をともにした両馬、そしてここでホウセントがC1級特別で3着であったのに対して、フクパークは軽量ならば勝手が違うとB2級の特別戦を見事快勝。こうなると俄然、両者の力関係を巡る論争は熱を取り戻す。フクパークはそのまま7月いっぱいまでB級で走り4戦3勝2着1回、というほぼ完璧な戦績を残して夏期休養に入る。ホウセントもC1を3戦1勝2着2回で抜けてB2級へ追いついたが、そこからは豪サラの強豪・フアストロ*26らに阻まれこれまた足踏み。ともあれ同クラスにはなったわけで、世紀の直接対決が実現するのもいよいよ時間の問題かと思われた。

 だが、その日は思いの外あっけなくやって来ると、いやにあっさりと過ぎ去っていった。9月30日の川崎開催メインレース、日刊スポーツ社杯競走。残念なことにフクパークは帰厩後またもや成績が上向かず、一方でホウセントは2連勝中の好調期まっただ中ででここに臨んで来た。フクパーク側の陣営からすると、万全の調子であれば……と忸怩たる思いであったことだろう。次走は両馬とも久々のアラ系競走に戻ってのリベンジ対決となったが、さすが60キロ代も後半の斤量では重すぎたのか、ここは56kで走ったホウランドがホウセントをハナ差凌いで1着。フクパークも苦手の酷量でよくがんばったが、一歩遅れた3着に終わっている。自分の確認した限り、この2頭の直接対決はこの2戦のみ。この時代の南関東、いや日本のアラブを代表する名馬であり、また確かにライバルと呼べる存在だったろうこの2頭が、こうして対決の機会にあまり恵まれず不完全燃焼で終わったことはじつに惜しい。

左から2番目が田中利衛。続いて順に小暮嘉久、白井新平、須田茂。一番左の見切れている人物が高木清。
 それでは、その後のホウセントとフクパークはどうなっただろうか。ホウセントはすでに日高・大塚牧場での種牡馬入りが予定されており、翌6歳の1月下旬には先方へと引き渡す事になっていた*27。正月の川崎開催で大晦日の敗退のリベンジを決めると、いよいよ最後に使えるのはあと1回。サラブレッドともう一戦交えることも考えた新平だったが、どうせ苦戦が必至ならアングロアラブのホウセントのこと、最後は68kを背負おうとも1月16日のアラ系・千鳥賞へと出すことに決めた。もっともさすがに勝てるとは考えていなかったようで、「3・4着に来たとしても、斤量の重を考慮すればこの馬の能力の限界がわかるし、着差さえ縮まればやはりホウセントは強かったという印象は残すことができるだろう」という考え。実際に主戦の須田茂騎手はホウランドの方への騎乗を依頼しており「(ホウセントに)須田さんに乗ってもらって、ホウランドを休ませるか」と逡巡していたくらいだった。その代わりにホウセントの手綱を取ることになったのは、すでに騎手を半ば引退していた田中利衛調教師。なんでも当時は田中調教師に騎乗登録*28が残っているかどうかさえわからず、競週で大井のトラックマンだった吉川記者がわざわざ予備登録*29の朝、田中調教師のところへその有無を確認しにいったくらい。田中氏自身もふだんは自ら攻め馬に乗ることもなくなっており、そもそもその日も騎乗靴を履いて来ていなかった。本人からして自分の息が続くのかが心配だったが、やむなくレース当日に朝乗りをしてから本番へと臨んだらしい。

 レースの方ではオマタドロツプスを見つつ3番手から追走、逃げ馬を外から交わしにかかったオマタドロツプスを、人馬ともにベテランの味か、ホウセントはインの走りやすいところからすっと軽く追い抜いていった。しかしいったんは先頭に躍り出たとはいえ、やはり斤量の差はいかんともしがたい。直線に入るとオマタドロツプスは、再びジリジリとホウセントに迫った。「いま一息、今一歩!」もはや鞭を抜く余裕すらなく、田中騎手は拍車をつけた足を必死にばたつかせると、残り200mを力一杯、体力の限界まで追い続け……

 そして翌週の28日、いよいよ北海道への出発を前にしたホウセントは、開催中の大井競馬場にてファンを前に勇退披露式を執り行った。その日の競週当日版には、次のような大見出しが躍ったという。「大井のアラブは日本一!」

勇退披露式の様子。スタンドのファンからも大いに拍手が上がった。
 一方フクパークはというと、やはり調子が戻らないままサラ系とアラ系を2戦ずつ使ったのち、ホウセントの引退を見届けることなく年内に関西へと戻っていった。といっても古巣の兵庫競馬ではなく、名を「キノピヨ」と変えて中央・京都競馬場の新堂捨蔵厩舎に入厩したのだ。ホウセントから遅れることちょうど一年ほどの中央入りだったが、まずはサラブレッドの平地に混ざって9戦5勝2着2回と驚くべき好成績を挙げている。さらに出走禁止は平地競走だけというところに目をつけて6歳の夏休み明けから入障すると、使われ方にやや順調さを欠くもののやはり一線級で好走を続けた。重賞・アラブ大障害でも2着したほか、68kを背負っての勝ち星もある。中央競馬での通算戦績は18戦10勝2着4回3着1回、中央の戦績でいえば、フクパークは明らかにホウセントを上回る戦績を収めたのである。この馬がきっかけでアラブの中央転入が閉ざされた、というのは事実でないにしても*30、そうした伝説が生まれるほどキノピヨは関西の競馬界で「アラブの怪物」としてその名を轟かせたということなのだろう。のちに園田が「日本一のアラブのメッカ」となってから、中央と地方のアラブ交流の少なさを説明するに当たってこの馬の伝説が持ち出されたことも想像に難くない。56年8月の中京開催を最後に出走の記録はないが、種牡馬入りも果たしたことは確かなようだ。


 さて、現在。ホウセント記念が名を変えたアラブ王冠賞は、中央競馬アングロアラブ競走廃止にいち早く追随した大井競馬場により、最後の伝説・トチノミネフジの三冠達成を見届けて1993年に廃止。フクパーク記念もまた遅れること10年、2003年が最後の施行となった*31。公営地方競馬の事始め、アングロアラブの神々がいた時代から、ほんの半世紀にも満たない時の流れ。それを否定できるような何かを持ち合わせているわけはないけれど、その中で忘れ去られた太古の名馬たち、そしてこれからも次々に風化していくだろう幾多の優駿ら――そして競馬場と競馬人たち――のことを思うとき、我々にできることはいったいなにがあるのだろうね。
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*1:調騎分離実施以前。そもそも当時の地方競馬には「調教師免許」が存在しなかった。

*2:http://blog.livedoor.jp/youkouzan1/archives/50297702.html、およびhttp://blog.livedoor.jp/youkouzan1/archives/50302138.html

*3:なんといっても、アラブ王冠賞は創設当初「ホウセント記念」として施行されていたほど(67年から改称)。当時の南関東で馬名を冠したレースといえば、川崎のキヨフジ記念(現在のエンプレス杯)とゴールデンウエーブ記念(1955年設立、59年廃止)の2例のみ。現在まで見渡しても、ハイセイコーロジータ、それに今年からのフジノウェーブがあるだけである。どれだけその走りが印象的であったのか想像が付こうというもの。

*4:http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96。だがまあ、これはよくまとまった良記事である。

*5:新平については、このエントリーで氏の自伝である『競馬と革命と古代史を歩く』(現代評論社、1982年)を出典にまとめている。

*6:元陸軍大尉。戦後、札幌の進駐軍競馬を主催したことで有名。立川健治『地方競馬の戦後史――始まりは闇・富山を中心に(競馬の社会史・別巻1)』世織書房、2012年、165〜190頁参照。

*7:以下、特に出典を注記しない引用は全て「座談会 ホウセントを語る――関東アラブの実勢力を鳥瞰する――」競週社『競週地方競馬』2月号、2〜9頁。

*8:とくに付記がないレースは全てアラ系。「不」は不明の意。

*9:大井の調教師となってからも高木氏は札幌に自宅を残しており、セリの季節になると帰郷する生活を送っていたようだ。

*10:この際、新平は札幌の高木へ予算として300万円を送っている。72万で最高値となる当時の相場を思えば、とんでもなく豪毅な話である。

*11:少々長くなるが、本文中からその様子を語った新平の言葉を引用する。「昭和24年の日高のアラブ市場で、国営競馬になって始めて競馬部が抽選馬向きのアラブの二歳の購買を行った。時の購買官三上技師が、アラブの幼駒の鑑定については、多年の経験に自信があって、これと思う馬は業者の競値に関係なく40万なり50万なり、相場一杯に値をつけた。競り値を、いわゆる這って買うのではなく軍馬購買のように、権威に駈けての大胆な、ある意味では傍若無人の独断的な買い方だったと言う」「前年の購買に非難が高かったので、この年(筆者注:昭和25年のこと)は競馬部の購買官が京都の財部技師だった。そして財部氏は業者と事前に話し合ったのか非常に巧妙な、競馬部としては有利な買い方をした。素人の僕が見ていると、いい一流の馬は大体財部君が、案外安い値段で買い取っていく。業者はこれに競りかけて争わない。競馬部が声を出さない馬は、業者同志(原文ママ)で競り合うのだが、これは自由競争となって案外に割高である。予め競馬部用の馬と、業者用の馬とが分けられていて、あだかも暗黙の契約があるようで、第三者の傍観者の眼からみると、ひとつのなれ合い市場のようにもうかがえた。財部君の人柄の徳か、その手段の巧妙さか、とに角市場に活気がない」

*12:この直前、競馬部部長の職にあった井上綱雄氏が、テンプラ問題と併せて将来的なアングロアラブ競馬廃止を匂わせる発言をしていたという。

*13:新平の牧場を「ランチョトマコマイ」という。そのほか、新平が競走馬として輸入を手がけたリンボー(馬主の田邊宗英は川崎競馬倶楽部(現よみうりランド)初代社長)の最高傑作たる初代南関東三冠馬ヒカルタカイ種牡馬入りしたランチョトミカワ(現在の白井牧場に隣接?)という分場(?)もあった。代表生産馬にダイアナソロン(1984桜花賞。父パーソロンで、母父がヒカルタカイ)。

*14:ホウランドとラミーホープの2頭。とりわけホウランドはホウセントと並んで、当時の南関東アラブ界のトップランカーとして活躍している。この座談会の最後では、中央アラ系障害への挑戦も視野に入れているとの発言もあったが、出走していたかは未確認。

*15:小暮調教師にいわせると、その勝負カンがあってこそ通常の馬からすると1秒2秒遅い時計で連勝を続けることができた、とのことだ。

*16:のちの重賞・全日本アラブ争覇の前身。

*17:まあ、新平側の言い分しかこの史料には書かれていないのそのまま鵜呑みにするのは当然ながらあれだが。

*18:http://www.keiba.go.jp/topics/2011/0725.html。このあたりは、今回の自分のように過去の成績を復元した物好きが兵庫なり地全協なりにいたのだと思われるが、いかんせん表に出てこないので確認しようがない。キンキの資料室あたりから戦績カードがぽろっと出てきてくれないものか。

*19:南関東競馬の戦績については『日刊スポーツ(東京版)』と『スポーツニッポン(東京版)』を、中央競馬については『オールスポーツ』および『大阪日刊スポーツ』の当該期間分(いずれも国立国会図書館新聞資料室所蔵)をそれぞれ併用した。なお、旧6歳時の夏期に札幌開催に出走していないことは同じく『北海道新聞(札幌)』で確認済みである。

*20:http://homepage3.nifty.com/arab/sonoda-fukupa.html。今回閲覧できた当時の関西発行のスポーツ新聞には、兵庫競馬の出馬情報・レース結果がどちらも記載されていなかった。そのため、現時点での検証は不可能。

*21:使用史料の関係上、(1)予想印が打たれず(2)馬券外の結果となった レースに関してはフォローできていない。

*22:最終出走の確認は1957年6月いっぱいまでしか行っていない。

*23:当時の地方競馬では一般に補助馬と呼称した。

*24:勝入戦は本来前ないしは同一開催内の好走馬を集めて行われる競走なので転入緒戦というのは腑に落ちないのだが、これ以前の成績をなんど見返してもフクパークの名は確認できない。選抜戦のシード的な扱いで出走できた、と考えるくらいしか思いつかない。……といいながら単なる見落としだったら間抜けだが。

*25:ホウセントの翌年の日高セリで、上場最高値の100万円で落札されたのがこの馬。父方景に母梅橋、母父ウツリーブリツヂ、アラブ血量37.50%。のちにサラ系B級での勝ち星があるなど、もはや忘れ去られているがこちらもこの時代を代表するアングロ・アラブの1頭だろう。http://www.jbis.or.jp/horse/0000455654/

*26:父Nilo、母Woodstand(母父Mr. Standfast)。のちに中央へ転出し、キタノオー・メイヂヒカリ天皇賞(春)で3着するなど26戦6勝の活躍を見せた。http://www.jbis.or.jp/horse/0000001718/

*27:種牡馬としてのホウセントの代表産駒に、佐々木竹見騎手騎乗で62年の春の特別(のちのアラブダービー)を勝ったラツキーマンナがいる。

*28:現在でいうところの騎手免許と考えればよいか。

*29:記述を見る限り、レースの前日であったと思われる。

*30:かのwikipedia様では、そのようなことになっている。これ、訂正したいんだけどやっぱり「独自研究」ってやつになるんでしょうかね。http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%AF%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF&oldid=45142883

*31:この時勝ったサンクリントは、やはりこの年が最後となった兵庫競馬が誇った3歳アラブの祭典・楠賞アラブ優駿も制している。