序文

 東京ダービー東京大賞典の二大競走を始めとして、今年2014年をもって60回目の還暦を迎える南関東競馬の重賞は多い。なぜだか川崎は開設時から重賞としての回次を数えているのだが*1地方競馬の雄・大井競馬場が冒頭に挙げた両競走の前身である春・秋の鞍と、のちのアラブダービー・全日本アラブ大賞典の前身である春・秋の特別を設立し、南関東において「重賞」という概念をはっきりと打ち立てたのは、この1955年が始まりなのだ。中央競馬*2においても、戦前にそれぞれの前身を持つ5大クラシックや天皇賞、目黒・京都・中山の記念競走などは別格として、東西の金杯安田記念のような歴史の古い重賞競走であっても、その起源は1950年代初頭のこと。中央側の新たな動きにいち早く追随する往時の南関東競馬関係者の矜恃を、この数字は伝えている。

 しかしながら、この先人らの働きによって60年来の南関東競馬を彩った幾多の優駿、優れたホースマンらの名が遺されているにもかかわらず、その評価は決して十分にはなされていない。ある時期までの地方競馬から中央へ転入した名馬が語られる際に必ずついて回る「当時の南関東競馬は賞金・レベルにおいてトップクラスで中央競馬と遜色なく」という、ある種の言い訳じみた文句のあとに、その実態を描写する細かな言葉が続いたことなど決してありはしなかった。ロジータのような数少ない例外やいわゆる「開放元年」以降のダートグレード競走戦線を走った馬は別として、大多数の競馬ファンらは、中央競馬の檜舞台に現れることによって初めて地方競馬の名馬たちを知り、そして中央競馬の枠内で貪欲にその物語を消費していく。そこでの地方競馬とはどこまでも、「中央のエリートをなぎ倒す、民百姓の代弁者」を生み出すための、オリエンタルな客体に過ぎない。そう、ハイセイコーイナリワンが、仮にそのまま大井競馬場で走っていたら?オールド・ファンや競馬史に詳しい者ならばヒカルタカイヒカリデユールは忘れることのできない名馬だろうが、ではゴールデンリボー*3の名を知る者はいったいどれくらいいるのだろう?

 まったく、そんな問いかけは根本からして転倒している。彼らが競走馬である以上、賞金、名誉、そしてファンの歓声が格段に上とされる中央競馬を目指すのは、しごく道理に適ったことだ。歴史的にみるならば、ことサラブレッドに関しては中央競馬の「お下がり」によってオープンクラスを形成してた時期が多かったことも事実である――まさしく、今現在がそうであるように――。だが、大井競馬場ハイセイコーの厩務員であった山本武夫は、その中央転出を嘆き郷里の金沢へと逐電したという。あのオグリキャップの中央入りに際しても、馬主側と鷲見調教師の間には一時の確執が生まれている。中央競馬は確かに凄いが、うちだってダート競馬とアングロ・アラブ、騎手、調教師、厩務員の腕前や、老馬を立派に走らせる秘訣、スタンドから眺めに、食堂の盛りの良さ。そんなもんなら負けちゃいないぜ、なんてのをそれぞれ腹の中に住まわせた地方競馬場たちの物語は、公営バクチとしての矛盾を大いに孕み、時に暗黒街の勢力との繋がりを引きずってはいたけれども、戦後日本における競馬の一翼を、一本立ちして立派に担って来たはずなのだ。

 だから、ここはひとつ手始めに南関競馬の60とウン年を、じっくり見返してやろうじゃないか。

 ある一人の人生の中でさえ、どんなに鮮烈な痛み、喜びを伴った記憶も時の流れとともに色褪せていく。ましてや馬畜生のかけっこの記録ごときや、である。それでも、古ぼけた活字の向こう側に遺された、その時代に汗を流し生きていた彼らの姿を掘り起こし、叙述し、語り合い、そして現在、未来へと結びつける。そんな歴史を紡ぐという行為に価値を見出すのもまた人間であり、文化の尊さの表れなのだと、私は堅く信じている。

*1:実際のところ、ほかにも船橋の平和賞やダイオライト記念など、公式には重賞としての施行に含まれていないが同名・同条件のレースがそれ以前に行われている。そのあたり、どうにも統一がなされていない。

*2:当時はまだ国営競馬だが。

*3:1975年の南関東三冠馬。のちに中央入りするも、故障に泣き大成できず。