東京オリンピックと南関東競馬(2)

 1960年代初頭というこの時期は、南関東公営競馬中央競馬にもっとも肉薄していた時代である。とりわけ1957年産の世代から、最後には海外遠征まで果たしたタカマガハラと南関東中央競馬双方の年度代表馬(1960年公営日本一・1962年啓衆社賞年度代表馬)に輝いたオンスロートを輩出したことは特筆に値する。しかし、南関東競馬が「公営」のくくりにある以上、普段から一般紙のスポーツ欄にも取り上げられる中央競馬とは、当たる「光」の強さに格段の違いが生まれてしまうことは避けられなかった。どれだけ競馬場が連日満員になろうとも、そしてどれだけ強い馬を鍛えようとも、中央競馬という表舞台へ上がることなしには、その名が正当に評価される機会は段違いに少ない。そしていったいどれだけの名馬たちが、南関東から中央競馬へと移っていったことだろう。キヨフジ、フクパーク(は兵庫の馬だな)、オパールオーキツトにミツドファーム、ネンタカラ、ダイゴホマレ、オンスロートヒカルタカイハイセイコーカツアールヒカリデユール(もちょっと違うか?)、アズマキング、サンオーイ、キングハイセイコーステートジャガー、そしてイナリワン。まあより強い相手、より高い賞金を求めるのは、競馬の原理原則からすればごく当然のことでしかない。だが普段はそういうものだと割り切っていても、まるで日陰者の扱い対する寂しさは避けられなかったことだろう。ただでさえ、当時の一般社会の認識からすれば、博奕のコマを育て走らせる稼業なのである。

ミスターシービーの「裏で」同年に南関東三冠を達成したサンオーイの中央転厩後唯一の勝利。2着のローラーキングも大井でデビューしたのち金沢へ転出し、白山大賞典・北國王冠・中日杯と重賞3勝を挙げてから中央へ転厩してきた馬だった。次走の札幌記念では見事サンオーイへの雪辱も果たしている。
 だからこそ、南関東競馬の威容を示すための大一番となるこの第一回オリンピック競馬は、なんとしてでも成功させなければならなかった。主催者側の気合いの入れ方も並々ではなく、特別な日であることを演出すべく周到な準備がなされたようだ。係員はこの日のために作られたオリンピック競馬記念のネクタイ・ピンとバッヂを身につけたほか、浦和・川崎の両場からも誘導馬を借り受け3頭体制での本馬場入場を実施。さらには府中の大レースではたびたび登場していた消防庁ブラスバンド隊総勢40名が大井競馬場に始めてお目見えし、各メインレースの表彰式では花束の贈呈役にミス・東京が起用された。レースの方は開催最終日のフィナーレを飾るものとしてアングロアラブ3歳馬の大一番・春の特別(賞金70万円)が据えられたほか、初日は賞金100万円のオールカマー戦が、2日目・4日目にもそれぞれサラブレッド・アラブのオープン戦が組まれている。5日間の賞金予算は、総額2000万円を超えたという。

 また大井競馬場によるやはり初の試みとして、開催初日に農林・自治・大蔵・文部関係各省の大臣から中央競馬会の酒井忠正理事長に至るまで、総勢500名の来賓に招待状を送付することも行っている。このうちのどれだけが実際に来場したのかはわからないが、少なくとも当時の東京都知事であった東龍太郎氏やこの前年に恋愛結婚を経て臣籍降下していた「おスタちゃん」こと島津貴子昭和天皇第5皇女)、秩父宮妃殿下、そして東京オリンピックとの関わりが深い竹田恒徳(元竹田宮恒徳王)夫妻らが、このオリンピック競馬を観戦したようである。

2号スタンドゴンドラ席で観戦する秩父宮妃殿下、島津貴子さんら。
 以上のような主催者側の熱意もあってか……は知らないが、開催の方はというと入場者数は連日1万2000人を越え、売得金の1日平均は9800万円、開催総額で4億9337万5100円と当初目標としていた同7500万円・3億7500万円を大幅に上回る盛況を見せた。その純益約5600万円に東京都競馬側の寄付――通常は売得金の5%の施設使用料5日分のうち、3日分を全額寄付――も含め、この開催だけで約7700万円がオリンピック資金財団に寄付されている。オリンピックに向けた資金調達としても競馬興行としても、まさに大成功というべき結果だった。普段は騒擾事件かなにかでも起きない限りはどうしたって紙面に載っけてくれない一般紙各紙も、社会欄でこのオリンピック競馬の開催を小さいながらも伝えてくれている。

 さあ、続いてはこの第一回オリンピック競馬を彩った馬たちを紹介していこう。初日のメインを飾ったオールカマー競走では、1959年の中山大障害(春)を勝った小兵の名ジャンパー・オータジマが、単勝25倍の人気をものともせずに2着のオンスロートらを破って優勝する大金星を挙げている。さらには観戦していた秩父宮妃殿下がたまたまこの馬の単勝の特券(1枚1000円の馬券)を買っており、配当の2万5000円をさっそくその場でオリンピック資金財団へ寄付するというほほえましい一幕もあった。2日目のメインである1800mサラブレッド系オープン戦には、前日のオールカマーとどちらに出走するかが注目されていたアラブの怪物・センジユが登場。しかしここは惜しくも3着に終わり、勝ったのはご存じ船橋の出川巳代造調教師率いるコトブキ軍団の雄、ダイニコトブキ。1958年の羽田盃・春の鞍・秋の鞍(それぞれ現在の東京ダービー東京大賞典)を全勝した名馬で、このレースだけで無く翌1962年にも7歳ながら地元船橋ダイオライト記念を制するなど、じつに息の長い活躍を見せた。最終日の春の特別は、最有力視されていたブルーバードカップ・千鳥賞勝ち馬ダイゴウイルソン――もっとも、ブルーバードカップは1着入線のハヤミナミ(この年のアラブ王冠賞馬)失格によるたなぼたである。ちなみに、これがあの佐々木竹見騎手のデビュー2年目にしての初重賞でもあった――が直前になって回避を表明。結果的に混戦模様となった本番では他馬が牽制し合っている中、4番人気のエロルデが悠々と2馬身差つけての逃げ切り勝ちを決めて見せた。1800mの勝ち時計は1分58秒4。単勝660円、6枠連単が1190円とそこそこの配当がついている。

センジユは1956年生まれ。父方景、母イースタン(母父バラツケー)、アラブ血量35.93%。通算成績90戦31勝、総獲得賞金1527万2000円。59年の春の特別や秋の特別を2回制するなど重賞8勝。アングロアラブ相手ではかなりの酷量を背負わされることから――実際、6歳時の秋の特別では69kgで快勝している――サラブレッドのレースにも進出し、5歳時に準重賞・スプリンターズHでオンスロートを下すなど一線級と互角以上に戦って見せ4勝を挙げた。1960年公営準日本一・1961年公営最優秀アラブ壮馬。引退後は種付け料3万5000円で種牡馬入りすると初年度から60頭以上の牝馬を集め、記録を確認できた限りでは1974・1975年のアングロアラブ総合リーディングサイアー。時期的には、あのエルシドやセイユウ、タガミホマレあたりとリーディング争いを演じていたのだろうか。代表産駒に、道営出身で69年の全日本アラブ大賞典を制したことから、地元では記念レースまで作られたセンジユスガタ、福山三冠馬テルステイツ、兵庫の重賞を勝ちまくって同地区所属馬としては初の賞金1億円馬となったイチトクなど。

 第7回春の特別を制したエロルデの口取り写真。鞍上は2000勝ジョッキ−・松浦備騎手。調教師の小暮嘉久氏は、赤間清松、高橋三郎、的場文男など多くの名手を育てた大井の名門。
 この第一回開催以後も、年に2回のオリンピック競馬は順調に成功を収めていく。重賞競走を組み入れたことこそ第一回の春の特別のみであったが、オールカマー競走にアラ・サラのオープン戦をひとつずつ、という番組構成はその後も踏襲されている――もしかしたら、それが当時の大井のふつうの開催番組なのかもしれないが――。翌1962年は4月19〜23日と11月26〜30日、1963年は5月17〜21日と11月16〜21日にそれぞれ開催された。そして予定通りここまで計6開催を消化したところで、オリンピック資金財団への寄付金は約4億2000万円にも達し、当初の目標であった3億円を1億円以上超過する好成績となったのである。さらに、予算規模が当初の17億円から20億円を軽く超過する見込みになったことも関係したのか、はたまたこれは思った以上に儲かるとわかったからかは知らないが、オリンピック資金財団側は開催年である1964年にも、追加のオリンピック競馬開催を要請してきた。そのため同年5月22〜26日にかけて第7回オリンピック競馬が開催され、しっかりと計8億2508万1100万円を売り上げてみせる。これにより、財団への寄付総額は累計5億円の大台を突破した。公営競技として国家的プロジェクトのためにこれだけの貢献ができたのだから、南関東の関係者は鼻高々であったことだろう。

 そして変わったところでは、このオリンピック競馬の余波として1964年・1965年には「武道館競馬」なるものも開催された。日本武道館はあの正力松太郎氏らが中心となって東京オリンピックに間に合わせるべく急ピッチで建設が進められたのだが、その建設費用20億円のうち10億円を国費から出し、5億円は財界などの寄付によって賄われた。残りの5億円を、中央競馬南関東競馬での協賛開催で補おうという話である。まあ実際のところかなり切迫した話だったようで、当初大井側が難色を示していたところ、農林族の大物・赤城宗徳農林大臣から直々の要請まであったようだ。第1回武道館競馬は1964年2月9〜14日の6日間開催で行われ、重賞としてアラブ三冠の一冠目である千鳥賞が組まれていた(勝ち馬はテツカントウ)。総売得金は9億9830万5700円、総入場者数10万8680人と良好な成績に終わったのはよいのだが、他紙はともかくとして『読売新聞』上ですら、この開催について報道がなかったのは少々呆れてしまう。もともと法人としてのよみうりランド川崎競馬場船橋競馬場の施設運営から始まったように、正力氏と競馬はまったく無関係というわけでもないのだけれど。ただしその代償というわけではないのだろうが、オリンピック開催中に休催期間が生じることも鑑みて、南関東競馬はこの年の下半期にギャンブルホリデーを設けなくてよいとする特例を農林省から受けている。

前年より各公営競技は週に一回開催休止期間を設けることが定められたが(ギャンブル・ホリデー)、特例によりこの下半期は連日開催が可能となった。
 さてさて、長くなってしまったが、ここまでのお話はいかがだっただろうか。なんだ、やっぱり地方競馬はちゃんと自分の役目を果たしてきたじゃないか。これだけのことをやっているなんて偉いもんだなぁ、とお考えになる方も、もしかしたらいるのかもしれない。だが、冒頭の東京記念の回次を見るまでもなく、これはもはや半世紀も昔のことである。21世紀の東京オリンピックでは、どう間違っても選手の強化費が不足したりはしやしないだろう。各種施設の建設費すらも、本当に足りるのかはしごく怪しげではあるが一応は全額用意してあるという。それにもし「今こそオリンピック競馬をもう一度!」と発破をかけてみたところで、売上の額面は比較できないにしても、入場者数は半分以下が関の山。肝心の利益の方はというと、これはもっともっと少なくなってしまっている。馬のレベル?それはもう、今更口に出したくもないくらいだね。もちろん、センジユのようなアングロ・アラブの名馬なんてもんは、もはや日本中の競馬場をいくら探したって走っちゃいない。

 話は南関東公営競馬にとどまらない。きっと、あの公営競技の輝かしい時代は、もうとっくの昔に過ぎ去ってしまったのだ。東京オリンピックが成功に終わってからわずか3年後、1967年からの美濃部都政下に始まる公営ギャンブル不要論が全国の革新自治体を席巻したことが、思えば一つ目の節目であった。そして1990年代後半、地方経済の疲弊と雇用情勢の悪化に呼応するように多くの地方競馬場で売上が急落していったにもかかわらず、黄金期のやり方以外にほとんど何もできないまま。そして最後は「財政に寄与できないどころか、赤字を垂れ流すお荷物部門」というしごく常識的な判断に基づいて次々と廃止されていった時、我々は気がついたはずなんだ。かつて、地方競馬場の中でもとりわけ上山競馬場を愛した山口瞳氏が、「上山のあの立派な小学校の窓ガラス、あれのうちの何枚かは俺の金でできたもんだ」と楽しげに言い放てたような、公営競技という構造物はとっくに寿命が来ていたことを。自治体だとかお国だとか、そういったもの以外の存在意義を、きちんと探さなきゃいけないんだってことを。

上山競馬場最後のレース、第31回樹氷賞。数多くの廃止競馬場のラストランの中でも、実況が一番心に染みる。
 ではテラ銭稼ぎのための競馬に60数年も浸ってきた我々にとって、それ以外の競馬の存在意義とはなんだろうか?現在の日本競馬におけるその最有力候補は、競馬のもっとも源的な点に立ち返り、純粋なスポーツとしてより速い馬を目指すという行為だろう。そして長年にわたって志ある多くのホースマンがそのために血がにじむような努力を重ね、JRA自身も国際化というかけ声の下で、それを実現しようとしてきた。別に競馬は日本の国技でも無いんだし、JRAなんて半公的部門をわざわざ舞台装置に提供してやる意味はあるのか?――それこそ、一企業としてのその努力には頭が下がるばかりなのだが、いわゆる社台の運動会なんぞに――という疑問はさておいて、そのあたりの矛盾が噴出しない程度には、なんだかんだで多くのファンはより速い馬の登場を支持しているものらしい。そして今、ごく当たり前のように凱旋門賞の1番人気が日本馬によって占められている時代がやってきた。50年代のハクチカラから、ほんとうに遠くまできたもんだ。だが、この王道は今の地方競馬場にとっては、まるで宝くじを買うような夢物語に過ぎない。いっそ開き直って見たならば「ハルウララ」なんて大物が突如飛び出てきたりもしたが、基本的には邪道であって何度も使える手ではない。それはその後の地方競馬場による「記録達成による競馬場興し」が、ことごとく失敗に終わっていることからも明らかだろう。

 または、馬と人が競馬という複雑なゲームの中で生み出す働きかけ、感情、文化こそが、その土地にとって特筆すべきものであるという人もいる。なら、もはや「世界で唯一の」がキャッチコピーとなってしまった帯広市営・ばんえい競馬。最低でも収支均衡を要求される公営競技としては正直末期もいいところだが、この点にたてば金を儲けるどころかむしろ自治体が金を出す形で、保存するなり積極的に活用するなりしてもいいのではないかと思う――もちろん納税者の理解は現状難しいだろうし、規模の縮小は避けられまいが――。いやいや、ファンが目の前のレースで楽しむために馬券を買うという、エンターテイメント産業としての側面だって、大いに大事なことだろう。馬券の楽しみという観点からすれば、馬の脚が絶対的に早いかどうかなんてのはそれほど問題になることではない。JRAと並んで大井競馬場はこの点について、トゥインクルナイターの導入をはじめとして人一倍に力を注いできた。なんだかんだで、ここ10年20年競馬場のファンサービスはずいぶんといろいろやるようになったもんだしね。ただ個人的にいわせてもらえば、「うまい酒が安く飲める」というのがウリになるような競馬場だって、もっとあって欲しいもの。

JRAのCMってのは、やっぱりよくできている。
 まあ、結局のところ私にはまったくわかりはしない。わかっていたら、もうそれだけで「日本競馬の再生はこうだ!」だなんて大演説をぶち上げてますって。そもそも、たかだか一介の競馬ファンがやることじゃないよねそれは。それでも、この時代のこの国で、競馬を開催する意味とはなんなのだと。そして、あなたにとっての競馬とはいったいなんなのか と。なんとまあ陳腐な言い回しですが、南関東競馬公営競技としての全盛期を見た今回は、けっきょくそのあたりに落ち着いてしまったんですな。

 さあ、せいぜい悩んでみましょうか。