幼き日の思い出と

 幼稚園の年長組になったころにはスーパーファミコンの「ダビスタⅢ」で遊び、たまの祝日には親父に連れられ南関東競馬を回っていた私だけれども、じつは馬の名前をちゃんと覚えたのはずっとずっとあとだった。生来概念を名詞化して覚えるのが苦手なこともあって、ナスルーラはスピ・気性難にノーザンダンサーは底力、などと攻略本に載っているインブリード効果で認識していただけ。騎手のことなどリストの上の方から載せればいいものと名前なんかはさっぱりで、そもそも中央競馬の競馬場の名前すら、今から思えばちゃんと分かっていたか怪しいものである――少なくとも、位置関係は絶対に理解していなかったな――。競馬場へ行ったところで、それほれ赤勝て白くるな、なんて刹那な観戦に終始していた記憶がおぼろげながら。そんな私が始めて名前を覚えた馬が、あのエルコンドルパサーと同世代の三頭―――グラスワンダースペシャルウィークセイウンスカイ――であった。

私の盲を開いてくれた日本競馬は、まさしくブームの最末期。爛熟の時代へとさしかかりつつあった。
「今晩はな、日本の馬が『がいせんもんしょう』に挑戦するんだぞ」
 朝食の席で子供みたいに楽しそうに笑う父の言葉の意味を、最初私は理解できなかった。ダビスタⅢにも凱旋門はあったが、下手くそな私の生産馬はGⅡすらろくに勝てやしない。なので、子供のくせにその難しさはいっちょまえによーく分かっていたつもりだったし、現実世界にポケモンがいないように、凱旋門賞で日本のお馬さんが走るなんてないことだとばかり思っていたのである。そもそも、「えるこんどるぱさー」ってのはいったいどんなやつなんだろう、と興奮しながら聞き返すと、親父は昨年のジャパンカップエアグルーヴなんかを破った馬だ、覚えていないか?なんて怪訝そうに答える。おそらく、私もそのTV中継を見ていたのだろう。物覚えの悪い息子で、ほんとうに申し訳ないことをしたものだ。ついでにいえばその間の母親の苦虫を噛むような顔と、そのあと皿洗いをさせられた理不尽な怒りの方は、なぜだか今でもよく覚えている。

 ふわふわとした子供特有の高揚感は長く続かず、やっぱりいつも通りに10時過ぎには眠くなってしまう私。親父に、「明日朝に結果をぜったい教えてね」と頼んでから床に着いたのだが、翌朝起きた頃にはいつも通りに、親父は会社へ出かけてしまったあとだった。仕方がないので、夜に帰って来るのを待つ。いつもなら月曜からすっかり飲んだくれて帰ってくるので会いたくもないところだが、この日ばかりは勝手が違う。眠い目をこすって粘ること深夜1時、申し訳ばかりにおにぎりを用意して母親はとっくに寝てしまったが、私はまだ起きていた。玄関のドアが開く音がする、その瞬間、弾けるように飛び出して、いったい凱旋門賞はどうだったのと早口でまくし立てた。親父はすっかり泥酔していたけれども、私を認めるや目尻を緩め――あれが母なら、そのまま口論へと移行していたのだろう――たったこれだけを呟いたのだった。

「負けたよ、2着だったってさ」

 親父の声は、なぜか素面の時と同じ優しい響きを伴っているように思えた。そして私は、子供が泣くようにはできない大人は、哀しいときにこうやって酒におぼれてしまうのだな、と知ったのだ……というのは、たった今、酒を飲みながらこれを書いている私の筆が滑った嘘である。彼はいつだって、平日は酔いつぶれて帰宅したものだな。それに、競走馬が乾坤一擲の大舞台で負けたことの大きさも、やっぱり私はまったく分かってはいなかったのだ。それでも、その年の年度代表馬エルコンドルパサーが選ばれたと聞いたときは、なんの理屈もナシに「よかったなー」と本心から思えたものである。「世界」というのは、幼心にはそれだけインパクトがあったのだ。そしてそれ以来、地方競馬畑へ向かった私の中でも「凱旋門賞」という響きだけは、いつまでも特別なものであり続けている。

このレースの動画を見たのは、実は大学に入ってからだったりする。
 吉田善哉和田共弘野平祐二も知らなかった8歳の子供の前に現れた日本競馬は、すでに世界競馬の頂点を見据えるところまで上り詰めようとしていた。それからというもの、私が大人になっていく間にアグネスワールドトゥザヴィクトリーアグネスデジタルステイゴールドアドマイヤムーンディープインパクトナカヤマフェスタヴィクトワールピサ……世界の大舞台でもぎ取った栄光の数は、簡単には思い出せないほどである。そしてまもなく、日本馬が最有力と目されている凱旋門賞が発走を迎える。もし勝ってしまったら、これから日本競馬はいったい何を目指せばいいのか?そしてこの熟れ過ぎた果実をもぎ取ったあとに、つぎの実りを期待できる体力が日本競馬に残っているのだろうか?……なんてことは、ひとまずおいておくとしよう。古き日からの長い長い妄執にも似た悲願を、そして幼き日のとっくに消え去った時代の記憶の残り香を、ひと思いに吹っ切ってしまうきっかけになってくれるのならば、それに超したことはないのだからね。