syrup16gと五十嵐隆


「一番好きなバンドは?」

 など問われたならまっさきに脳裏に名が浮かぶのだが、実際に口に出すのはちょっと躊躇してしまう。案外誰だってそうしたバンドを持っているものなのかも知れないが――いや、やはりそんなヘタレは私だけで十分だな――、私にとってのsyrup16gとはまさしくそういう存在だった。まあ手始めに、ちょっと過去に書いたファースト・アルバムでの紹介でも引用してみるとしましょうか。

  もう諦めたよ。どうでもいいや。なるように、なっちまぇ(笑)

 そんな達観、中学・高校くらいの馬鹿者達なら、きっと誰だって思い描いている幻想だろう。全てを捨て去る、なんてことは僕らが思っているよりずっとずっと不可能で、正真正銘の果報者だけが果たせる贅沢な行いだ。それでも望みもしないのに、全てを失ってしまうことは、なぜこうも僕らの目の前に立ちふさがる?

 Syrup16gというバンドは、こうした思春期と自意識を徹底的にこじらせた阿呆達の悲しみを、もったいないくらいに美しく、これ以上ないほどに生々しい形まで練り上げる。フロントマンである五十嵐隆の書く意味深で破滅的な歌詞と、その張り詰めた嘆美なサウンドが織りなす独特の世界観は、間違いなく2000年代にメジャー・シーンに現れたどのバンドとも重ならない、血走った才気を漲らせていた。 
「COPY」レビュー

 喪失の痛みと回帰――ただそれだけが、五十嵐隆なる男がsyrup16gという場で10年以上にわたり歌い続けてきた主題だった。そして、あまりにナイーブなバンドであるからこそだろうか。自作的な演出だったのか、それとも露悪的な見せ物であったのか、どちらにせよこの軌跡をバンド活動全体を通じて表現しきった点に、その特異さが浮き彫りにされる。

 彼らはその非凡さを、メジャーデビュー直後矢継ぎ早にリリースされるアルバム群にて、この手垢のついた主題をあれだけ異なった手口で鮮やかに展開して見せることで見事に証明する。母、時、正気、未来、価値観、関係性、そしてなによりも男女の愛について、あらゆる物を失っていく恐ろしさよ。何者でもない自分のちっぽけさに、ふとした瞬間打ちのめされる真夜中の一瞬。と思えば大人しく打ちのめされているばかりではなく、逆ギレ気味に開き直っての大暴れ。超王道、直球ど真ん中の文学ロック様を、こっちが赤面するほど真面目にやってくれているのである。どうでもいいようなことをいくつも拗らせてどうにもなくなっていた高校時代の私にとって、これ以上恥ずかしく、かつ格好いいやつらはいなかったのだ。


 とはいえ、五十嵐隆、メジャーデビュー当時は御年すでに29歳。もはやそういった青春の影を歌い上げるにはギリギリの年齢である。さらにモラトリアム時代ならともかく、メジャーデビュー後とあっては実際内的にも無理があったのだろう。音源発表の停止と反比例してライブのたび新曲が書き下ろされていった第二期においては、迷走するバンドの方向性を反映するかのように、置かれた境遇に対する葛藤と不適応を不格好への叫びと、諦観をそのまま音にしたようなセンチメンタルな楽曲が中心となっていく。初期の病的までに研ぎ澄まされた緊張感はなくなり、その代わりに一人つぶやくような歌詞を、それでも違和感なくロックの中へとすんなり載せていく作業。その辺の流し風情がやったなら独りよがりだととられても仕方がないように思えるのだが、不思議とライブの動員は、回を経ることに増えることはあっても決して減りはしなかった。もっとも、今度こそ解散か?という恐怖が毎回ファンに蔓延していたこともあるけれど。

 そしていよいよ、バンドは3年半ぶりとなるラストアルバムの発表、武道館ライブでの解散ライブへと至る。ひとまずはこれで終わりですよ、とアピールするかのような楽曲たちはファンの間でも賛否両論だったが――大半の曲は、ライブ時代のものからかなり変更が加えられていた―ー、少なくとも私は好きだった。始めてあのアルバムを聴いたとき、「ああ、いよいよ五十嵐も救われたんかなぁ」と嬉しくなった思い出がある。

 グダグダした後期を決別したかったのか、ラストライブのセットリストもそのほぼ全てが音源化済みの旧曲から構成されていた。そう、満員の武道館、一音一音を噛みしめるようなライブの末、syrup16gの解散によって五十嵐の喪失と回帰の物語はひとまず幕を閉じたのである。

 ちなみにこのとき、私は大学入試まっただ中。高校卒業というのも一応の「区切り」であって、まるで卒業式で号泣する女の子みたいな自己完結的劇場感で一人悶々と盛り上がりながら、だらだら英文を和訳していた。それがあの解散ソング群たちを、妙にすんなり受け入れられた下地になっていたようにも思う。1年前に解散してたらCDたたき割ってたかもしれんね。

 それからというもの、春休みを超えた私は順調に灰色の大学生活を驀進していた。五十嵐の方はというと、新しく「犬が吠える」という名のバンドを立ち上げたが、レコーディング開始の記事が巻頭を華々しく飾った数週後にはなぜか解散。いったいそこでなにが起きたのかはまったく情報が出てこないのでわからないのだが、ただひとつだけ。新しいバンドで心機一転するどころか、五十嵐が歌ったのはそれまでと変わらぬ「喪失」の痛みだった。しかし、それはsyrup時代に数十年を書けて一度は完走しきった道のりである。ほかに歌うことはないのか、作家性とはいえ、かつての自分が帰って壁のように思われることもあったはず。そのあたりの葛藤が、彼に新バンドを断念させたのでは?というのは完全に一人妄想の世界だな。

 さて、そんな彼が、ついに4年の沈黙を経て「生還」するという。いったいどこにそんな数のファンが隠れていたのか、NHKホールというそこそこのハコでありながらチケットが手に入らないという声も大きい。私自身、先行発売では口座残高3428円の身で特攻を仕掛けるも、運悪く抽選で見事にハズレ。一般発売では果たしてファミポート待機がよいのかそれとも電話攻勢が正義か、2chで延々と議論したあげく、高度な情報戦とやらに敗れたのだろう。予想通り即時完売の中で僅かなチャンスを私が掴むことはなかった。ヤフオクにあっては延々と競り合って高騰する値段に恐れをなし、直前になれば値崩れもあるのではと思ったが、どうやら諭吉と樋口のアベック1組分は防衛ラインとして手堅い様子。どうやら、私は参戦できそうにない。

 五十嵐も40代、今度は何を歌うのだろう。別にハゲ散らかしても大丈夫、腹が出てたっていいじゃない。今度こそ、なにかsyrup時代とは違うものを見つけていればよいのだけれど。まあ、私もどういうわけだか大学に居座りはや6年目だるが、それでもなにが変わったかというと人格的にはそれほどないようにも。なので、あんまりに再会の寂しさを感じるのも嫌だなぁ、変わっていて欲しくないなぁ、とも思うが、それは一介のファンの我が侭に過ぎぬ。

思い出は思い出として、変わらない物などひとつもなく、しがみついた昨日よりも、移ろい変わる今日が素晴らしいなんて、当たり前のことなのだから。