「N・H・Kにようこそ!」

引きこもりの毎日は長いようで短い。だいたい、引きこもるような人間にいくら時間を与えたところで、やることなどネットで落としたアニメを見るか、脳内の消毒と称して壊れたラジカセのごとく同じ曲を何百回とリピート再生し続けるくらいが関の山(狂っているのは持ち主の方だ)。甘いシロップの水槽の中で、くだらない自分がいつまでも変わらず保存されているようなあの息苦しさは、甘美というにはあまりに生々しい不快感を伴い、結果せめて生産的な活動を遂行しようという意志を保つことすら困難な精神状態へとますます僕らを追い詰めていく。いや、勝手に自分から追い込まれていく。

 だから、たとえ学校近くの競輪場でホームレスとレッツ・トーキング!などという人生における底辺的活動ランキングでベスト5に入りそうな行動であろうとも、とにかくマウスを投げ捨て街へ出なさい。どうしょうもない生活をどうしようもないなりに動かしていくことが、この病理には一番のクスリなのである。もしも君がこの作品の主人公、佐藤達広のように4年間の引きこもり生活の果て大学中退22歳無職、アヤしいお薬を吸った勢いで「自分が引きこもっているのは、悪の秘密結社・日本引きこもり教会の陰謀なんだぁぁぁぁぁぁ!」などという、現実逃避と被害妄想のカクテル状態へ悟りをぶち抜くところまでイってしまったら……うん、ちょっともうどうにもならないかもね。

 そんな佐藤のもとに、ひきこもりから自分を脱出させてくれると称する謎の美少女、中原岬が現れるところから物語は始まる。そして、アパートの隣に偶然引っ越してきた高校時代の後輩、山崎薫。そりゃね、いくら能動性皆無のヒッキー人格でも、ここまで都合良くお膳立てされればお話にできるくらい動きますよ。エロゲ―のシナリオもひねり出します。友人に彼女ができたと聞けば学校まで顔を見に行きます。カウンセリングもばっちり、人の多い花火にだって岬ちゃんとなら大丈夫。佐藤は、第一話にしてひきこもりの呪縛からすっかり解き放たれているのである。確かに君はどうしようもないよ。でも君は、全世界の陰謀のうち99%を占める妄想あるいはでたらめではない、僅か1%の幸福を掴んだ男なのだよ。

 そう、これはひきこもりの夢だ。現実のひきこもりが日常を変えようと思えば、強い意志の力で現実に立ち向かうほかあり得ない。都合の良い友人あるいは女など、妄想だ。作中後半に登場するもう一人のひきこもり、トロトロが独白したように、多くのひきこもりは変わるのを恐れ、「なにか」きっかけをひたすら待ち続ける。見も蓋もないことに、彼にとってのそれは餓死寸前の空腹であったわけだが。

 そして、主人公が早々に救済されてしまった物語は、この都合の良いお話を根拠づける作業に費やされる。原作小説では危ないルサンチマンの具象でもあった山崎だが、漫画版とアニメでは夢破れ田舎へと帰る青春残酷物語の主人公として、よりすっきりと再構成された。


僕にとっては、一世一代の決意だったんですよ。ひきこもりの佐藤さんなんかに、なにがわかるっていうんです!

ドラマには起承転結があって、感情の爆発があって、結末があります。
僕らの日常はいつまでもいつまでも、うすらぼんやりとした不安に満たされているだけです。

 そして、ひきこもりに優しくするべく舞い降りた美少女、というあり得ない存在である岬ちゃん。彼女自身が救いを求めていた、というわかりやすい物語の中に、その存在は落とし込まれる。そして彼女が救われるまでの過程を、後半の核としてこの群像劇は進んでいく。一応、NHKの、そしてタイトルの真の意味も語られるわけですね。ここのあたりは、物語のまとめとして非常に上手い。鳥肌物の展開が続く。もっとも漫画版の方が、都合の良い存在としての彼女を真っ向から否定した上で受け入れていて、好きなのですけど。


 さて、今回リハビリがてら好きなものについてなにか書こうと思い書き始めたわけだが、けっきょくこの作品のどこが好きなのかはイマイチ自分でも言語化ができない。というより、読んで分かるとおりこの記事は途中でエネルギーは失速し勢いも迷走、すっかりまとめるのを放棄し途中で筆を折っているわけです。はるか昔6年前、始めてみた深夜アニメがこれであり、まあそこでぐっと引き込まれたわけだけれども……自分と重ね合わせていた面は強いだろうけど、実際のところ、究極的には「自分の所に岬ちゃんは来ない」という一点において、ただただ絶望するほかないしね。

 だけれど、まあ今でも私はこの作品を見ていて楽しい。後ろ向きに、全力投球な青春活劇。ほんと、よくわかんないですね。まあ、お勧めなのは間違いございません。