祭りのまえの寂しさが

 いよいよ、荒尾競馬場の廃止まであと2日。私は荒尾競馬場83年の歴史をろくに知らない。だが良くも悪くも、荒尾競馬場はこの平成の世にあってクラシックな「草競馬」の雰囲気を濃厚に漂わせていたように思える。もう、末期の開催は週にたった1回だけとなり、それすらろくに頭数が揃わない。数少ない馬達も、連闘に次ぐ連闘でぼろぼろな状態。乗り役含めてやる気のあるなしがレース展開へあからさまに反映され、怒るのを通り越して呆れてしまう。スタンドの方だって、ネット越しに見渡す限りは客らしき人なんてまあ10人いるかいないかといったところ(スタンド内にはもっといたのだろうが)・・・・・・そんな寂れきった田舎の競馬場だったが、時折映る競馬場からの眺めだけは、周囲に高い建物がないせいもあってかなかなか。平日昼間に授業をサボったけだるさを引きずりつつ「荒尾だからしゃぁねーなーw」だなんてぐちぐち文句を垂れ、のんべんだらりと打つ分には存外に楽しめる競馬場だった。

 またひとつ、地方競馬場が消えていく。ある意味では、仕方がないという諦めもある。おそらくもうとっくの昔に、公営競技はその役割を終えているのだろう。東日本大震災によって東北にカジノ特区を設立し、その「上がり」を復興予算に当てるという案がにわかにもてはやされている。だが、かつては競馬・競輪・競艇・オートといった公営競技がまったく同じ役割を担っていたという事実を思い起こすことができた人間が、いったいどれだけいたというのか?戦争の焼け野原や洪水でなぎ倒された町並みを復興するために公営競技はその産声をあげ、長年その責務を果たし続けてきた。現在でも競馬法には競馬を主催する自治体の条件として「著しく災害を受けた市町村」という条文が残っており、その理念の名残を今に伝えている。一方でそれは、公営競技は「金の為にやっている」という後ろめたさを、かえって自治体に持たせることにも繋がった。もはや公営競技が金を産むことがなくなった今、切り捨てられるようなことになるのも無理はない。

 博打としても、先にあげたカジノ・ゲームと競馬というものはずいぶんと趣が違う。カジノ・ゲームとは、もっと純粋なギャンブル性を噛締めるように愉しむものだ。ブラック・ジャックなどは悪童のゲームといってもよく、普段は数学的に導き出された最適解――これをベーシック・ストラテジーと呼び、一般に98%以上のリターンが約束される――に沿って立ち回りつつ、突然に自己流の読みで賭け金を張り上げたかと思えば、ふいに日和って通常は明らかに不利とされるインシュランスを宣言。さらには無謀なヒットでブラック・ジャックを狙いに行く。延々と続くかのような予定調和を悪戯っぽくぶち壊し、ギャンブルの本質たる合理からの逸脱を弄んで楽しむのである。さらにはバカラ・ルーレットの類ともなれば、完全な確立勝負であり丁半博打とほとんど同じようなもの。考えることといったらコマの上げ下げと、今が「ツイてるか」どうかの判断のみ。辛苦の末得た金を、ほんの数枚のカードや玉っころ1個に託すという世界と価値の倒錯行為。これらは、磔になったキリストのそばサイコロ遊びに興じる、あのローマ兵の時代からなんら変わることはないだろう。現代においてもカジノならば、世界のどこでもまったく同質な博打を愉しめることが約束されている。カジノ遊びは、その場における過去を必要としない。

 翻って、競馬には余分な「物語る」部分が多すぎる。そもそもこの博打は、馬それぞれが固有に持つ歴史を知ることから始まるのだ。そのコマを動かす騎手にだって、個性豊かな人格がべったりと付随してまとわりついている。それから、あそこの調教師はこういう調教をしたらそれは勝負の証だとか、この厩務員があんな服を着ていたら「ヤリ」の合図だ、なんて眉唾のお話まで。レースの外側いる予想屋やトラックマンの阿呆さ、売店のおばちゃんたちの笑顔ないしは無愛想。そうした空気にどっぷり漬かり込んでいくことで、ファン中にそれぞれのスタイルが形作られていく。たとえばそれは、競馬新聞はどれを使うかだとか、馬券を買うときにどの券種中心にを据えるかだとか。鉄板狙いか、穴党専門を貫くか。最も強い、最強馬とはいかにあるべきだろう。この騎手は俺の買っているときに来ないから嫌いだ、でもあいつは好きだな。なんて、もう全てが理不尽さとくだらない拘りの混合物に過ぎないのだけれど、だからこそ人生の奥底にまで染み入り、その人の一生涯から離れることはない。競馬の愉しみとは、つまるところ小さな過去の積み重ね、普段・日常の裏側に、もうひとつの歴史を作り上げていく作業である。

 別に、競馬のほうが高尚だとかいうつもりは毛頭ない。カジノの気楽さも、たまに遊ぶ分にはありがたい長所だろう。だけれど、そうした長い付き合いになる遊びといったものが、ここ最近で世の中から次々と見捨てられていくように感じられる。そんな世の流れは、本当に正しいのか?博打さえもますます刹那に、剥き出しのギラギラとした姿に変わり、それをお仕着せの慇懃無礼な装飾でどうにか誤魔化して格好だけつける。それほど余裕のない、厭らしい緊張感に支配された社会を、いったい誰が愛せるというのか?

 ・・・・・・話が大きくなりすぎた。そう、仕方がないのだ。仕方ない。金がなければ、文化だ、歴史だ、伝統だ、などというのは一切が塵も同然である。少なくとも、どこかの元府知事さんはそうお考えのようであり、心のどこかで一理あるかも、などと思ってしまう私がいることも否定できない。これもひとつの時代の流れだ。ひとまず、競馬は歌舞伎のようなお偉いものとは違うらしい。

 明後日の最終開催は、どれだけの人が集まるのだろう。・・・・・・そうだ、法的にはどうであれ、草競馬の原点は本来自治体のための金集めなどでない。それは地域のハレの場、原始的な比べ馬によるお祭り騒ぎの提供にあったのではなかったか。三井三池炭鉱の廃鉱以来、荒尾市自体が急速にその活力を失っているとも聞く。それが荒尾競馬場廃止のきっかけともなったわけだが、競馬場がなくなれば、荒尾市が全国に対して持つプレゼンスはさらに落ち込んでいくはずである。ならば、今こそその本分を思い出そう。例年は大晦日に開催していた肥後の国グランプリが、メインレースとして花を添える。メンバーの方も、なかなかいい感じに集まった。荒尾競馬場、最後の祭り。なんでも、関係者による手製記念品の配布も企画されているとか。私のような電投派も、なるべく馬券を買って貢献しよう。一競馬ファンとして、この祭りを大いに盛り上げ、盛大に祝ってやろうじゃないか。


 祭りのまえの寂しさを、ことさら嘆くのは無粋である。それを紛らわせるすべを探すのは全てが終わったのち、家に帰り着いてからでも決して遅くはないのだから。