忘れられた競馬雑誌『競週地方競馬』を読む(4)

(d)全国だより:全国公営競馬主催者協議会、News or Not(ニューズ・オラ・ナット)
 このふたつはニュース系の連載であり、当然ながら最後まで毎号掲載された。「全国公営競馬主催者協議会とはいわゆる地全協の前身となった任意協議団体だが、地全協発足後もコーナー名は変更されていない。新平が地全協のあり方に批判的だったことによるのか、あるいは地全協発足後も内部では協議会が組織として維持されていたのかは不明。基本的に、協会で行われる研究会や研修に関する公式議事録・報告を、そのままそっくり掲載していた。そのほかには全国の公営競技関係の職員の人事異動や、当時全国の地方競馬場の上級レースを対象に授与されていた会長賞(銀製の小さな盃だったらしい)を受けた馬名・馬主名なども載る。史料的には、毎号載っていた全国の公営競馬開催予定表と、その開催概況(=開催日数、入場者数、売上)が興味深いか。

 ちなみにこの開催概況、表の一番下に「(註)Rは当該競馬場のレコードである」という注意書きが添えられている。そして60年代のほぼ全編を通じて、この「R」の活字を見ない月はほとんどなかった。毎月どこかしら複数の競馬場が、その月の開催レコードを必ず更新していたのである。世の中で急に伸びるものはたけのこの背に国債残高くらいのものだと、勝手に合点している平成生まれ平成育ちの私にとって、地方競馬にもこれだけ景気がよいときがあったという事実は本当に驚きだ。まあ当然ではあるのだけれど、あんまりに肌感覚が隔絶してるよなぁ……

 News or Notはより広範なニュースを扱う物で、「公営競馬だより」「中央競馬の動き」「海外トピックス」の3部で構成されている。こちらも『競馬週報』に同名の連載が存在し、個々の記事は『昼夜通信』も併せてほぼ共通のものが使い回されている。海外トピックスは競馬主要国である英・米・仏のものが中心だが、それに加えてオーストラリア発の記事も多いのが目につく。記事自体も大レースの結果だけではなく、高配当や騎手・調教師の引退、記録の達成など種類が豊富。新平の信条からいって世界に目を向けた論陣を張ることが多かった『競週地方競馬』にふさわしい、国際色豊かなコーナーだったといえる。また「公営競馬だより」には、白井新平の手によるものとおぼしき提言記事もそこそこ目につく。

(e)東西南北
 大井・川崎・船橋・浦和のトラックマンが、それぞれが厩舎回りの出来事や開催中の報告、そのほか意見、演説などを自由に連載する企画。初期は1ページを四分割していたが、おそらく好評だったのだろう。1961年8月号からは見開き2ページに拡大され、それぞれ半ページずつ受け持つように。その後1969年1月号までずっとこの形式で続いたのだが、翌月から突然コーナー名が「トラックマン・メモ」に変更され、1ページこっきりに縮小される。さらに3月号からは時事的な小さな記事を複数取り上げる「トラックマン・メモ・ランダム」へと形に変わった。これもすぐに不定期化してしまい、同年中には連載終了となる。

 トラックマンは、大井・吉川、川崎・大島、浦和・黒田は終了時まで一貫して共通。どういうわけか船橋だけが数度のトラックマン交代を経験しており、高杉(〜1963年4月号)→神座(〜1967年10月号)→坪井(1967年11月号のみ)→伊藤(〜968年7月号)→油崎(終了まで)となっている。白井新平が船橋の馬主だったから、特別に心労が多かったのかね。ただしほかの競馬場であっても署名記事と無署名記事が混在しており、全てが全て上記のトラックマンが書いたものとは限らない。

 面白いことに、それぞれの場によってトラックマンの個性がはっきり現れている。例えば大井の吉川はわりとファン向きの内容を無難に選んで書いているのし、浦和の黒田は他場に質で劣る中でのトレセンが奮闘する様子に言及したものが多い。ましてや重賞を勝ったとなれば「快挙」と喜んで記事にしている(1964年8月号「トモスチヤの快挙に思う」)。さらには当時浦和が行っていた北関東競馬との交流にも何度か触れているが、決して好意的な感想ではない。そのひとつを引用しよう。

北関東と、南関東の馬資源は振るい昔から交流が行われており、その姿は双方の刺激となり、向上に直結している故に喜ばれるものだが、これが悪癖を呼ぶ結果ともなりかねない。ことに浦和が、その先端の役を受け持っているのは事実だ。良いにしても、悪いにしても直接の因があるのも浦和だ。そこで一考を要する問題が、当然浦和により以上かかっているといえるだろう。

 現に、3月競馬の内容を見ても放置しておけない事柄があったのに気付く。勝負は水もの、という一事で安易な解決に向かうなら重大事だと思う。現実の問題として、5日目、7Rの結果をどう判断し解釈するかだ。(中略、宇都宮からの転厩馬が時計を7秒以上詰めて大穴を開けた事例を紹介)

 ……この馬の宇都宮の成績を遡ってみても決して良くはない。北関東のメンバーと言えば、当然浦和のメンバーより弱敵相手だったことは事実。その中まで、9着、8着と芳しくないものが、急に良化することは考えられまい。南関東を順調に叩いている馬なら、たとへ一度でも能力に大きな変動があった場合には、再調教を強いられる。が、高崎なり、宇都宮で、大きな能力変動があっても、浦和へ出るには無関係。そのうえ、時計を極端に詰めてもその責めは何もなかったとなれば、こういう例は後を絶たないことにはならないか。浦和が冒涜されたと同時に、南関東が冒涜されたといっても過言ではないだろう(1965年4月号「北に冒涜された南」)

 たしかに、頻繁な転厩はクラス間の比較が困難になるのでファンが馬券を買いにくくなる。現在でも転厩馬が多いレースはオッズとにらめっこしながら買うかを決める物だが、かといって雑誌上でここまでヤラズの存在を匂わせるているのは驚きである。北関東は南関東より「遅れているから」あちらの方が胡散臭い連中が多い、という優越感のような物すら見え隠れする。南関東競馬にプライドを持った編集体制を敷いていた本誌だが、このコーナーにはノミ屋や騒擾、黒い噂の存在など当時の地方競馬につきまとったネガティブなイメージの改善を、施行者側に求めていることも多い。1961年には川崎で騒擾事件が起こり、3・4月の開催が中止される事態となったが、その際大島トラックマンは

恐ろしいのは、かつての親分衆がいた頃ならこうしたことは起きなかっただろう、という声が厩舎側からすら聞こえることだ」(1961年4月号「川崎事件の余聞」

と、黒い存在が開催側からも必要とされる状態を憂いている(ただし、このときの書名はOとイニシャル)。巻頭で地方競馬に対して気炎を上げていた白井新平が、おそらく分かった上であえてこうした面の改善に触れることがなかっただけに、現場トラックマンとの対称性はなおさら印象的に感じられる。

 船橋はトラックマンによって多少変わるが、「大井並の重賞勝ち数」を誇る一方で売上は浦和並、という現在の南関東競馬となんら変わることのない状況への嘆きが、何度も出てくきているのがなんともおかしい。極めつけは川崎・大島トラックマンで、彼は南関東競馬における障害競走に強い拘りを持っていたようだ。川崎は4場で最後までアラブ・障害をまっとうに編成していた競馬場であるということもあるのだろうが、「障害レースの充実を」(1961年6月号)に始まって「障害レースは必要、アイデア活かせ」(1967年3月号)に至るまで、複数回に渡り障害レースの振興をこのコーナーで取り上げている。結局、彼の奮闘も虚しく南関東の障害レースは60年代中に廃止されてしまうこととなるのだが……

 それ以外では、活躍馬の引退や場内環境改善に関する記事あたりは定番物。変わったところでは、厩舎村で開かれた将棋リーグの星取り表、なんてのまで載った(1963年7月号)。

――――――――――――――――――――――――――――――――――
<参考画像>

・1967年9月号の「全国便り」。

・1964年8月号の「News or not」。マニラでのアジア競馬会議で当時のトップ騎手須田茂が送られることを伝えている。また、左下「海外トピックス」では、ノーザンダンサーケンタッキーダービーで2000mのチャーチルダウン・レコードを叩き出したことが報じられている。

・1963年7月号「東西南北」に掲載された将棋リーグの星取り表。本文中にある「競馬ホリデー」は61年の公営競技調査会の答申に基づいて設けられたギャンブル・ホリデーのこと。これ以前の南関東競馬は現在のような平日開催だけでなく土日も競馬を行っており、開催休日はほとんどなかった。

※サイズかなり大きいです。
権利者(ケイシュウニュース)から文句が来たら大人しく削除します。