忘れられた競馬雑誌『競週地方競馬』を読む(8)

3.特集記事
 定期連載記事のほかにも、毎号いくつかの特集記事が載せられていた。中にはやはり「定番」化したネタも多くある。また白井新平による記事を含めて、こちらの特集記事は時事性が高いものが多かったため『昼夜通信』への転載も比較的多く見られた。ここではそうした特集記事のいくつかについて見ていくとしよう。なお、やはり特集として毎年恒例となっていたアジア競馬会議関係の記事、さらに競馬場の改修や研修に際して各地の地方競馬場をレポートした記事については、あとで別個にまとめることとするでここでは触れない。

(a)年度代表馬選定

もう中央に劣等感を持つ必要ない

 洋式競馬が日本に輸入されたのは文久元年、今年はその本家を継承してきている中央競馬では、競馬百年祭を大々的に企画している。公営=地方の競馬は、洋式競馬以前から日本の土壌から生まれ、幾多農右折に堪え忍びながら今日に至った。近代競馬というと洋式競馬と見るのは大方の意見であり、これは又間違った見方ではない。
 南関東公営が、今日のごとく中央競馬と何ら遜色ない組織を持ったのは、大井、川崎、船橋の3競馬場が相次いで竣工した昭和25年以降である。当時は準国営競馬(中央競馬の前身)として『準』の字を冠してその発展を喜んだ。しかしもはやその『準』の字も返上して良い時代に来ている。
 昨年中央競馬の売上は300億公営は310億だとみこまれている。全公営では中央の売上を凌いでいる。しかもこの全公営の7割、約210億は南関東一都三県で占めている。これは中央競馬の中山、府中が、ほかの中央競馬場を圧しているように。このことは現在競馬の強力さにおいて、関東の中央(中山、府中)と南関東公営(大井、川崎、船橋、浦和)は、拮抗した存在と見て間違いない。もしも公営で場外馬券を発売したとなるなら、公営の巨峰大井競馬は、中央、地方問わず日本一の売上を誇る大競馬場となることは、誰しも予測するだろう。
(中略)
 まだひとつ、大きな問題がある。偉大なるショーをやるためには、底に偉大なるスターがいなければならない。売上が経済界の好況以上に伸長していることは、ファンが年々増加、支持されていることが強いことを意味している。ファンは決してスタンドを見に来るのでなければ、スターティング・ゲートを見に来るのでもない。そこに走る馬そのものを見に来るのだ。いかに器が綺麗であっても、その中が、終戦当時のようにイモアメだったら誰も振り向くはずがない。南関東公営にはファンの声援に応えるには十分な名馬はいたしまた現在もいる。
(中略、南関出身の有力馬列挙)
 年度の代表馬を選定することの意義は大きい。その代表馬は永久に公営競技史上に特筆され、ファンのみならず競馬関係者全てにその栄誉は記録される。公営競馬にとって大きなプラスとなるだろう。ちょうど中央のその年度を回顧するとき、ミハルオーが23年、ゴールデンウエーブが29年と、その年のダービー馬によって、レースの連観が辿れるように南関東公営において、昭和36年は○○○○40年の○○○というように、この代表馬が、その年度のレースの回顧、それに連なる一巻とした公営競馬の歴史の1コマを教えるであろう。
 南関東公営に代表馬を、自らレースを見、自ら拍手を送ったファン各位が、自らの手で選ぶにふさわしい時が来ている!むしろみかたによっては遅きに逸したかも知れないが、ここに代表選定について、ファンの絶大の支援をお願いする。

 上記の文は1961年1月号にて、1960年の代表馬選定の告知が出た際に付されていたものである。もともと中央競馬の代表馬に関しては1954年から行われていたので、本文中にもあるように、南関東競馬の代表馬が生まれるまで5年の遅れがあったこととなる。第一回は随分と急だったのかアラ・サラの区分だけで代表馬を選定していたが、二年目からは壮馬(古馬)部門と三歳馬部門をそれぞれ設定し、別個に表彰する体制を整えていった。南関東競馬の馬から選ぶのに「公営日本一」とはいささか誇大広告気味だが、園田・東海の売上・賞金が急上昇するのは60年代も半ばに入ってからなので、当時としてはそう称するのも仕方がないか(それでも、他地区の関係者が知ったなら内心は複雑だったろうが)。実際、第一回のファン投票告知の文章からは、「中央競馬恐るるに足らず」という強烈なアイデンティティが感じられるのがおわかり頂けるだろう。

 ファン投票を呼びかけていることから、一見するとその得票数によって代表馬が決まるようにも思える。だが実際の選定は、マスコミ各社の記者による投票制であった。ファン投票の得票数が紙面上で示されたことすら一度もないし、詳細に語られている選考過程のやりとりの中でも、ファン投票の票数が取り上げられているところは確認できない。ではなんのための投票かというと、これはじつは懸賞はがき。応募者全員に年度代表馬のブロマイド写真が送られるほか、年度の代表馬を当てた中から抽選で、金一封(最高なんと1万円!)から『競週地方競馬』の年間購読権までいくつかの景品が抽選で当たる。このあたりは、『競馬週報』で行われた中央版も同じだった。ただこちらの方が得票数は少なかっただろうから、期待値で言えば断然か。興味深いのは、第一回の抽選では1・2等を当てた3名が全員、北海道の馬産地(静内など)からの応募だったこと。その後も、北海道勢はちょこちょこと当選者の中に顔を出している。中央競馬はともかくとして、地方競馬となると当時では情報の流通も少なかっただろう時代。生産馬の成績を確認するために、馬産地でも本紙を購読する読者がいたことを想像させる。

 基本的には毎年1月号にファン投票の応募券がつき、2月号で結果が発表されていた。ただたんに結果を載せるだけでなく選考員の氏名、所属や選考の過程、それぞれの馬の得票数まできちんとオープンに開示していたのは評価できる。また、のちにははやくも11月号あたりから告知記事が載るようになり、その年の有力馬の獲得賞金ランキングやメリット制によるポイントなどが掲載され、ファンの投票を手助けすることとなった。

 啓衆社が白井新平の手を離れた際、中央版の啓衆賞は『優駿』が引き取る形で存続したが、こちらは引き取り手がいないままその後どうなったのか不明。どうにもNARグランプリ発足以前(〜1990)に南関東独自でタイトルを設けて記録していたという話も聞かないのだが……結果として冒頭理念で掲げられている「代表馬は永久に公営競技史上に特筆され、ファンのみならず競馬関係者全てにその栄誉は記録される」という大義は雲散霧消し、記録自体もあやふやなままほとんど消失してしまったのは惜しい。

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<参考画像>

・第一回南関東年度代表馬選定の告知広告

・「牝系大鑑」でも触れたメリットシステムに関する説明記事  。賞金によってレース格を設定し、ポイント制で見る。普通に賞金額でよかったのではないかとも思うのだが……

・記念すべき第一回南関東年度の代表馬(サラ)オンスロート。60年の秋の鞍を勝った。この年には中央競馬へ移籍、同年中ははがゆい競馬が続いたが62年に入って有馬記念天皇賞(春)を制覇し中央競馬啓衆社賞年度代表馬、最優秀古馬牡馬を受賞した。おそらく史上唯一、南関東中央競馬年度代表馬をどちらも獲得した馬である。

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