忘れられた競馬雑誌『競週地方競馬』を読む(7)

(l)サラブレッド・ファミリー:日本サラブレッド牝系大鑑
 『アラブ系牝馬血統大鑑』からはや5年。1970年8月号より、田辺は「サラブレッド・ファミリー:日本サラブレッド牝系大鑑」と銘打った連載を1年半にわたって掲載する。本人曰く、「アラブ系牝馬血統大鑑の姉妹版」であるこの本は、いわゆるファミリー・ナンバーに沿って日本で活躍したサラブレッド牝馬の系統を、輸入以前のヨーロッパでの流れの中で系図化したものである。ただし、最初の段階では「基礎牝馬の、根幹牝馬に至るまでの牝系図と、我が国に輸入されてから最近までの牝系図、を2つの柱とする」と書かれていたので、本来は輸入後の牝系図まで補完するつもりだったのかもしれない。だが結局、連載では前者の「根幹牝馬か基礎牝馬」までの系図しか描かれないままで終わってしまった。

 特筆すべき点として、この連載では「どういった基礎牝馬、牝系、ファミリーナンバーが我が国で活躍しているのか」を定量的に検証することもあわせて目指していた。そのために「メリット制」と呼ばれるシステムを導入し、賞金の水準が異なる時代の戦績を、ある程度比較することを可能にしている。メリット制はもともと年度代表馬の選定に際して、白井新平がアメリカのサラブレッド・レコード社の算定していた現役競走馬の評価基準を持ち込み算出していた数値で、レースの賞金を格の基準としその着によってポイントを与えるというものだった。ここでのメリット制は少し様子が異なり、いわゆる8大競走の3着馬までにポイントを割り振り、その合計を計算することで牝馬・牝系の評価を行うものである。具体的にはダービーの15点を頂点に桜花賞の10点までが1着馬に割り振られ、2・3着はいづれの競走も平等に5点・3点ずつ。さらに牝馬が牡馬クラシックを勝った場合は3点、三冠を制した場合は10点のボーナスがそれぞれ与えられた。ちなみに基礎牝馬部門の統計では、現在においても名牝系として名高いビューチフルドリーマーがメリット合計351点でトップ、次点がアストニシメントの351点(メジロの牝系の祖ですね)。3番手以下はこの2頭に大きく引き離されており、フラストレートが259点、さらにフロリースカツプの237点と続く。

 さて、「サラブレッドのファミリー・ライン」と聞いて、おやっと思った血統ファンの方々もいたことだろう。じつはこの連載が続けられている最中の1971年8月、サラブレッド血統センターの白井透の手によって『サラブレッド血統体系』が出版されている。そして一般的には、こちらが日本で始めてファミリー・テーブルを整理した書物としての評価を受けているのである。

 この両者を比較すると、『血統体系』は日本に輸入された基礎繁殖牝馬を起点に、現在ではセリ名簿などでも一般的なブラック・タイプ形式で牝系を描いている。系図は輸入後の日本で生まれた馬だけに絞られている分、牝馬だけでなく牡馬の活躍馬(勝利数が基準)も書き加えられており、情報量は圧倒的だ。一方で「サラブレッド・ファミリー」の方は日本の家系図を思わせるようなもので、詰め込める情報量ではブラック・タイプ式に大きく引けを取っている。そもそも連載段階では基礎牝馬以前の系図しか掲載されておらず、構想半ばで頓挫したような状態で刊行された。その代わりにそれまでの研究蓄積を引き継いだ上でファミリー・ナンバー別で整理されているため、輸入以前の血統をすぐさま参照することができ(『血統体系』は五十音順で整理)、上で述べたようなメリット制による血統分析もあわせて行われている。海外の名馬の写真も豊富で、どちらかといえば『血統体系』を補完するような使い方が想定されるだろう。

 構想段階では田辺も基礎牝馬以後の牝系をまとめることも考えていたのだから、内容が重なる『血統体系』の刊行によって急遽、前半部だけで完結させたと考えることもできる。実際、『血統体系』が出された1971年8月の翌月9月号では、「サラブレッド・ファミリー」は急遽休載した。もし仮に田辺が輸入後の牝系にまで手をつけていたとしたら、我が国の競馬史上に残る大著となっていたことは間違いない(なにしろ、前半部だけの刊行版で300頁近くあるのだ)。しかし、狭い業界の中で田辺が白井透の『血統体系』の出版構想をまったく知らないまま連載を開始する、というのもよくよく考えれば妙な話ではあるので、たんに連載1周年で休みを取っただけなのかもしれない。

 とはいえ、白井透は白井新平の三男であり、早稲田大学卒業後の数年間を啓衆社で過ごしたこともある。また彼は啓衆社で『日本の種牡馬』なる血統本のはしりのような本の作成に携わっており、当時啓衆社内でも「血統屋」と見られていただろう田辺と、まったく関係がなかったとは考えにくい。なにより、日本における牝系図という意味では田辺の『アラブ牝馬系統大鑑』という先例があったのだから。さらには「仕事の合間に血統をカード化して整理する」という作業手順まで、この両者は不思議な共通を見せている。競週社入社当初は血統には素人同然だった透と、田辺は師弟関係、とまではいかなくともなんらかの交友はあったのではないか……という推測もなりたつが、どうだろう。

 ちなみに興味深い事実として、田辺もブラック・タイプ書式にそって資料を整理することを行っていたようなのである。1971年の日本ダービーは濠サラの流れを汲むヒカルイマイが勝ったが、これを受けて田辺は『昼夜通信』にて6月25日から28日にかけて、ミラの牝系を紹介する特集を掲載している。そこで示されている牝系図は『アラブ牝馬系統大鑑』で見られたような家系図式ではなく、れっきとしたブラック・タイプ書式によるものだった。最初は古巣を離れた白井透から、田辺が完成目前の『血統体系』用の資料を借りて制作したのかとも思ったのだが、これと『血統体系』に掲載されているミラの牝系図を見比べてみると、それぞれ記載されてしかるべき馬が抜け落ちているなど、細かな違いがいくつか見つかる。一例を挙げれば、『血統体系』によると第二ミラ5代下メイヂミラー(昭和33年、ボストニアン)には繁殖登録されたメイヂトップという産駒がいたはずだが、田辺版には掲載されていない。逆に田辺版に掲載されていて『血統体系』には載せられていない牝馬もいるが、これは繁殖登録がなかっただけかもしれずなんとも判断しがたいところ。また、田辺版では『血統体系』の掲載基準に満たない3勝以下の牡馬も多く載せられており、個別の馬に関しても生年、父馬名、牡牝に加えて、父馬がサラ・アラブいづれかも併記されている。

 もっとも編集段階で情報などいくらでも整形するだろうから、このふたつがまったく別個に作成された資料なのか、それとも共同制作ないしは同じルートによって作られたものなのかは現時点で断言できない。さらには、「サラブレッド・ファミリー」の連載において田辺はなぜブラッド・タイプ書式ではなく、家系図式を取ったのかという疑問もある。この両者を巡る謎は、どうにも釈然としそうにはなく、今後じっくり腰を据えて検討すべき課題のひとつだろう。まあ、一番早いのは白井透氏ご本人に、お聞きしてしまうことなのだろうけれど。

 ちなみに、その後白井透はサラブレッド血統センターで1971年に『競馬四季報』を発刊し、1990年には『ファミリー・テーブル』の第3版を世に送るという偉業を果たすこととなるが、田辺一夫の方はどうなったのだろう。新平の著作中、競馬評論に関する記述の中に、「啓衆社社出身で世の中にいる競馬評論家は数え切れないが、その中にターフ・ライターといえるのは『優駿』の宇佐見と『馬事通信』の田辺とのふたりくらいだろうか」(『官僚!中央競馬はこれでいいのか』長崎出版、1981年、261頁)というものがある。この宇佐見が啓衆社出身で『優駿』で編集長も務めた宇佐見恒雄だとすると(余談だが、この宇佐見も『サラブレッド血統事典』に関わっているような血統畑の人間だ)、こちらの田辺が田辺一夫その人である可能性は高い。となれば『馬事通信』の古いものを漁っていけば、なにかしらの手がかりは掴めるのではと思うのだが、この業界紙はバックナンバーがなかなか見つからず難儀している。なにしろ、今のところ見つかったのは浦河町立図書館だけ。それも、93年以前のものは廃棄済みでは……

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<参考画像>

・連載1回目に掲載された、基礎牝馬別メリット合計ランキング

・1970年9月号に掲載された連載の一部。各牝系出身著名馬の写真が非常に多いのが、この連載最大の特徴だろう。

・『日本の種牡馬』の掲載広告 。「観戦記」、「ステークス・ウィナー」といい、当時の啓衆社はほんとうに血統に力を入れていたようである。

『血統体系』の第二ミラ系図と、『昼夜通信』に掲載された田辺版系図

『サラブレッド・ファミリー』の広告。「我が国でもちろん初めて、画期的な牝系統図」とはややいい過ぎな感があるが。

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