忘れられた競馬雑誌『競週地方競馬』を読む(1)

地方競馬こそが本流である

 日本は発展した。飛躍した。景気のよい池田内閣の収入倍増論がその異端を象徴しているように、日本の経済の発展は、世界の驚異ですらある。我が国の競馬もこれにともなって、大発展した。中央、地方を問わず日本の競馬界の全体がはち切れるほど充実し、新しい段階へ展開したのである。競馬場に人と馬が溢れ、売上記録を更新し、馬主も、厩舎も、産地もその余恵に潤っている。日本も競馬も、あの壊滅的な戦争の痛手から完全に建て治り快復し、充実し、いままで経験しない新時代へと飛躍しようとしているのである。このとき、競馬の次の課題は何であるか。

 より優秀な、より充実したレース内容、より完備した設備。今世界の最進国であるアメリカの競馬からみたら考えられる改善課題は、まだまだ指摘できる。それは競馬の体質改善である。内閣の公営競技調査会法案がいよいよ暮れに通過した。競馬が競輪、オート、ボートとともに一括して審議対象となることについては、競馬側からは別の解釈を抵抗する余地はないでもない。だが競馬が現に果たしている社会的な効果の点からみるならば、また同日に審議の対象にならざるを得ないことも否定できない。

 戦前の馬匹改良の種馬選択機能としての競馬の存在が、いま主張できないことは明らかである。戦後の競馬は中央競馬地方競馬も、財政寄与と、社会的な娯楽としての観点からのみ理解されている。系統だった産業としての競馬と軽種馬の生産は、広く社会的認識としてまでの発展を遂げていないし、まず第一にこれを開催する主催者の動機と意識が、そこまで確立されているとはいえない。戦災復興と財政寄与のための公営競技が、この発展した日本の経済の現況において現況のママで放置されてよいかどうか。これは、いかに競馬人が反対を叫んでも避けられない問題である。

 35年の競馬の売上は600億を突破した。中央と公営とが、その売上実績をほぼ二分している。だが競馬の世界で、日本競馬の本流が中央であり、公営=地方競馬は亜流でありその弟分だという考え方は、不動のものとして競馬人の間に信奉されている。だがこの考えにたつと、財政的寄与の必要がなくなれば、地方競馬の存在意義は軽くなり、中央競馬だけが残存すれば、日本の競馬は安泰だという考えも生じる余地がある。日本の競馬を二分する中央対地方は、車の両輪であって、一方が淘汰されると車の機能を果たさなくなる。中央だけでは馬資源の資質の向上も、生産の刺激も、優劣の淘汰、生産馬の消流も行き詰まって、競馬界の現況が維持できないことは明らかである。

 だが、そのことよりもさらに根本的な問題として、中央が競馬の本流であり、地方がその亜流であるという最初の出発点である認識そのものに、再検討の余地がありはしまいか。競馬愛好の国民的・民族的基盤からいえば、各地に自然発展していた地方競馬の方がむしろ本流である。中央競馬は明治後、軍馬の増成改良と結びついて、人為的に移植された競馬体制である。民主憲法下においては、むしろ地方競馬の方が、本流の国民的競馬だと言うべきではあるまいか。

 もし地方、公営の主催者が、国民的基盤にたってこの競馬の意義をかく認識するなら、その存在理由を主張する根拠と自信は、今とは大きく変わるはずである。公営競技調査会において、地方公営競馬をいかに防衛し、その存在を強調するか。新しい年の最大の課題がここにあるといえる。(1961年1月号)

 上記の文章は、50年代半ばから70年代初頭にかけて昼夜通信啓衆社(現ケイシュウニュース)から出された月刊誌『競週地方競馬』の1961年1月号、巻頭コラム「蹄声耳語」を全文転載したものだ。戦後の日本競馬史上、南関東競馬を中心に据えた競馬雑誌はおそらくほかに例がなく、さらに当時はのちに地全協から出る『月刊地方競馬』もまだなかった時代である。それだけにこの史料は往時の南関東競馬を知る上で貴重な手がかりとなる最重要史料であり、その存在がこれまでほとんど知られてこなかったことは南関東競馬、さらには地方競馬の歴史を語ろうとするものにとって大きな損失であったと言っても過言ではない。

 なにより上記の文章を現代の目から見たときに、我々は地方競馬の未来に関するその言葉の的確さに驚かされることだろう。私たちは70年代に興ったギャンブル公害論による攻撃と騒擾事件の数々を知っており、また2000年代の採算不全となった地方競馬場たちの相次ぐ廃止はまだまだ生々しい記憶である。このコラムを執筆したのは啓衆社の創設者で当時のオーナーだった白井新平だと思われるが、のちに述べるように彼は若い頃にはアナーキストととして、その名を知られた人物だった。シンペイは若き日の反権威の情熱、アナーキストに特有するあの社会の危うさへの鋭敏すぎる感性を、そのままそっくり急成長を続ける戦後競馬の脆さに向ける。当時の競馬はコダマ・メイズイ・シンザンらの登場による第一次競馬ブームを迎えており、本文中に600億と出ている売上は、僅か10年のうち10倍以上の7000億円にまで増大していった。そんな高度成長のまっただ中で黙示録的に破滅を叫ぶ白井が、当時の競馬関係者から白眼視されていたのも無理からぬところだろう。『優駿』上では「反骨のジャーナリスト」なる異名をいただいたこともあったようだ。さらにまだまだ戦後のレッドパージやシベリア帰りの赤化兵の記憶が社会に残っていたころであり、その政治的な経歴もまた、正当な評価を妨げる要因となったのかもしれない。

 だが事実上白井新平によるワンマン経営だった当時の昼夜通信啓衆社が、当時の南関東競馬を知る貴重な史料を遺してくれたことに変わりはない。予言の正否をもって歴史上の人物を現代的に語り崇敬するのは虚しいが、それでも彼の地方競馬に対する見識が、現在でも十分に通用するのは事実だ。そして提起された問題の多くは今に至っても解決されていない、もしくは完全に的中してしまった。この人物、この雑誌に再び陽の目を当てることは、混迷続く21世紀の日本競馬において、一定の価値を持つものと私は強く信じる。

 私自身、この史料と出会ってからまだ1週間程度であり、未だ下読みしか終わっていない段階である。それでも今のところの考えを記しておくと、この連載は3章構成を取るつもりでいる。第1章は『啓衆地方競馬』という雑誌自体について説明を加え、さらにはその基本的な内容を解説する。第2章では「蹄声耳語」のうち優れた数篇を中心に据え、白井新平が遺した大量の記事を参照することで、彼の地方競馬、日本競馬に対するヴィジョンがいかなるものであったかを探る。第3章では記事となっている当時の南関東競馬、日本競馬の記録や出来事を整理し、年別にまとめることで60年代の競馬がどのようなものであったのかを見ていく。また『競週地方競馬』に掲載された南関東地区以外の地方競馬場の紹介記事や、毎年大型特集が組まれたアジア競馬会議に関する記事も、可能であれば別枠で適宜まとめ挟んでいきたい。

 一応の参考資料として、国会図書館で閲覧することが出来た『啓衆地方競馬』全巻の特集名・コラムタイトルをまとめたエクセル・ファイルを置いておく(競週.xls 直)。下読み段階でのものであるため書式の統一が不完全で、誤字なども多い。また特集名は目次欄から書き起こしたもので、実際は目次に載っていない副題、記事も相当数存在している。それはおいおい第3章を書くときにでも併せて直していくつもりであるが、ひとまずそのタイトルをざっと眺めただけで、この雑誌の水準がどれだけ高いものだったかがすぐさまおわかり頂けると思う。

 少し大きな本屋に行けば、競馬の必勝法、攻略法を騙った本は、本棚のひとつやふたつを軽く埋め尽くている。だが、競馬に対して文化的・社会的な側面から切り込むような鋭い研究は、現在まで数えてもそれほど数があるわけではない。一説に拠れば、「競馬本は、真面目なものならばそうであるほど売れない」などという言葉すらあるという(正確には、「あらゆる研究書はまったく売れない」だと思うが)。それだけに、これだけの競馬雑誌が当時の日本に存在したという事実を、日本の競馬ファンはもっと誇るべきではないだろうか。