忘れられた競馬雑誌『競週地方競馬』を読む(2)

第1章 『競週地方競馬』の概要

1. 啓衆社
 南関東競馬と縁のない若いファンからすればなじみの薄い存在だろうが、南関でケイシュウニュースといえば古参筋に愛用者が多い、玄人向き新聞としての評価が定着している。中央のファンであっても、ときに『優駿』上で50年〜60年代の名馬の特集が組まれた際など、現在のJRA賞が「啓衆賞」と表記されているのに気付くかも知れない。文字が違うので案外気付きにくいようにも思うのだが、この2社は同一のものであり(2度の身売りを経験してはいるが)、当時啓衆社が発行していた週刊誌『競馬週報』での先駆的な試みは、現在でも日本競馬界に多くの遺産を残している。一例を挙げれば

年度代表馬を始めとする各部門の優秀馬の選定
リーディングジョッキー、調教師への表彰
・巻末に保存版として前週の全レース戦績をコメント付きで掲載する
・レース後の関係者へのロングインタビュー、敗因、勝因分析
・あの大川慶次郎を競馬予想の世界に引き込んだ

 などなど。また一説によれば、現在一般に使われている縦組みの馬柱を最初に考案したのも、『競馬ファン週報』時代の白井新平とのことらしい。さらには南関東競馬で始めて導入されたスターティング・ゲートの輸も、彼の個人の功績である。

 白井新平は1907年、京都の舞鶴で生を受けた。父親は没落した商家生まれの造船職工であったが、早熟の秀才であった新平その期待を一新に受けて中学にまで進学することができた。中学時代から大杉栄賀川豊彦を読むような早熟で弁の立つ学生だった新平だが、父親が若い頃に貰った梅毒脳症がもとで働けなくなると学費の支払いに困り、古本の露天売りなどをして生活をするはめに陥る。けっきょく大杉を見習ったわけでもあるまいが、新平は自由恋愛による駆け落ちに失敗したことが契機となり大阪一高を退学、そのまま政治運動の世界へと身を投じていく。

 このあたりの出来事や出会った人物の評伝は、彼の自伝である『競馬と革命と古代史を歩く』(現代評論社、1982年)に詳しい。神戸のアナーキズム結社、黒闘社では女と酒を愉しみコーヒーを飲みながら革命を語る「思想団体の半リャク屋(タカリ屋)の革命青年ども」へ幻滅し(もっとも、個々人の情熱はそれなりに買っていたようだったが)、1927年から大阪では「大阪合成」なる労働組合の活動へ都合2年間にわたって従事する。とくに後者では皮革業から日雇い労働まで、多種多様な自由労働に従事することで組織の恰好を維持し、妻子を含めなんとか糊口を凌いでいた。当時の彼のサークルでは専従一人を養うことすらやっとという有様で、当然のように生活は苦しかったのである。そんな中でも『反政党運動』なる新聞の大阪支局を買ってで、黒闘社を通じて知った無産政党の理論かぶれとインテリ臭への批判を展開している。前述の自伝の中でこのことに触れる際の、新平の筆は鋭い。

革命思想が輸入されたから解放闘争が起こったと見るのは本末が転倒している。アナかボルか、科学的か空想的か、いずれが真理かという発想は人民のうぬぼれであり、錯覚であり、観念的遊技である。
 人民の革命的思想があって、それをあとから理論づけてインテリは革命戦に参加が許される。”反政党”に拠った東西の黒いプロレタリアは、日常闘争、目前の階級戦に消極的な観念論には反発する。主義者と労働者の体質的な違いがある。理論的な革命家は、革命の担い手である人民の寄生虫的な存在だ(『競馬と革命と』79頁)

 その後詳細は語られていないが、おそらく生活苦からのものだろう。1929年に新平は大阪を離れ、東京の下町である江東地区へ拠点を移す。子供も生まれた一方で昭和恐慌によって生活は困難を増しており、新たな「潜り」先のひとつとして新聞の求人欄から偶然応募したのが、当時競馬月刊誌『競馬ファン』を発行していた黎明社だった。ただギャンブルの世界でメシを喰うことに関しては多少の後ろめたさがあったようで、本人曰く「良心的手淫」とのこと。もっとも戦後アメリカへ渡り彼の地で馬産が「産業」として人々の生活の糧になっていることを確認した後は、バクチはともかくとして「競馬インダストリー」に関して卑下することはない、と考えるようになったらしいが。

 最初は社長の口述筆記役、グラビア誌の編集として働いたのち、競馬人気が高まるにつれて人手不足となっていた競馬雑誌編集へと回される。新平はそこでメキメキと頭角を表し、1931年には競馬予想紙のさきがけとなる『競馬ファン週報』の創刊に携った。さらに地方競馬の情報提供が不足しているとみるや、『週報』の地方版を発行し競合がいない中で大儲けの商機をものにする。ただ、この頃の地方競馬での「予想の提供」は馬主、親分の腹の中を読むような側面があり、後に快く思わない勢力からの脅迫などがあったらしい。当然新平側も後ろ盾となる親分衆に話をつけていたわけで、このあたりはかなり黒い部分もあったことだろう。

 また活動家としての側面もまだまだ健在であり、1931年には日染の煙突男争議に関わり、交渉面を担当して奔走。結果的には敗退したとはいえ、この間は編集部にまったく寄りつかなかったというのだから呆れる。もっとも、新平がやっとの思いで作った組合運動は1年ほどで叩きつぶされてしまい、けっきょくのこのこと『競馬ファン』へ帰ってくるはめに。それを快く迎え入れた、当時の社主岩崎士郎も相当な傑物である。
 
 そして新平は妻政子の結核発病を期とし、入院費を稼ぐために独立を決意する……ということに、一応自伝ではなっている。早い話が一方的な引き抜き、裏切りの類なわけで、本人が言う言葉をそのまま鵜呑みにすることは出来ない。とにかく1937年にほぼ部門ごと独立して競馬週報社を創設し、競馬新聞『競馬週報』を発行した。結果は、初版の1500部を売り切る大成功。政子は翌年に死去するが、この商売のおかげで新平は戦中思想的な道志らが過酷な弾圧を受け転向を余儀なくされている間も悠々と生活を続け、また戦時統制で当時の競馬新聞社が統合されて生まれた『馬事日本』の専務理事に収まる。この独占商売は当然非常にうまい汁であって、解体する際には「社長一人頭10万円を分配する」というくらいだったから立派なもの。本人からすれば「どうせ潜るなら、競馬に潜んでいた方がまだマシだった」「競馬は我がパンの糧だ」とのことであるが、この実業家としての成功は、新平の政治的な活動と矛盾するところがなかったのかどうかは随分と疑わしい。

 さらには当時陸軍情報部に勤務していた高校時代の同窓生、白井勤から「戦局はまずいこととなっている。いいか、借金をしてでも土地を買っておけよ。ただし、戦後は農地は危うい。買うなら山林だ」との助言を受け、1943年に千葉県で1万4000坪の山林を買うということまでやっている(当時の競馬新聞協会の仲間にまで土地を買うことを勧めていた)。これによって、新平お気に入りの一人称である「黒いプロレタリアート」「戦うニヒル」に、「千葉の百姓」というフレーズが新たに並び加わることとなった。1万坪の山林地主をプロレタリアートないし百姓と呼ぶアナーキストとは、古今東西見渡してもそうそう見つかるものではない。なるほど、たしかに価値観の転倒を第一とする俗説的虚無主義の趣がないこともないか。

 あらかじめ社名を啓衆社と変えておいた新平は、戦争が終わるやその社名にふさわしい政治的な著作を相次いで発表している。その代表作が『天皇制を裁く』で、近代天皇制を国民国家における人工的な構造物であると断じたこの本は、当時の世相を反映して10万部を超える売上を見せた。だがGHQ天皇制温存策、そして当時既に各地で闇競馬が再開していたこともあり、新平はそれまでの出版で得た金を元手とし、再び競馬新聞の発行へと戻っていく。さらに物資難で新聞の発行が困難であるとわかると、当時国会で馬事関連の記事を取り扱っていた『昼夜通信』と提携し、優先的に紙の配給を受けることが出来るようにしている。といっても新平名義の記事が頻繁に登場する『昼夜通信』は実質的に吸収合併されたようなもので、1970年には正式に啓衆社が昼夜通信社を取り込み、社名を昼夜通信啓衆社と改めた。

 さて戦後の啓衆社は、現在の競馬ブック社をも凌ぐ、超重量級競馬出版社としての陣容をそろえていた。まず、日刊紙として競馬新聞である『競週ニュース』を中央版、南関東版どちらでも発行している。戦前から続く競馬新聞がほかには『競馬研究』のみであったこと、さらにはその知名度の高さから、戦後競馬においても初期には圧倒的なシェアを誇っていた。のちに吸収した『昼夜通信』も馬事を取り扱う日刊紙であり、A3版一枚の両面刷りで表には競馬に関するニュースを、裏面にはたいてい中央競馬のレース結果を掲載していた。連載記事もわりと豊富で、まだ調査中だが例えば1968年の春にはドサージュ理論についての紹介記事を載せている。またほぼ毎号に公営競技の開催告知広告が載っているのだが、これが南関東4競馬のほかは尼崎競艇、甲子園競輪、園田競馬といった西日本の公営競技場のものであったことは興味深い。西日本の競馬ファンが、東のレース結果を知るために購読していたのだろうか。

 そのほかには、週刊誌として先にも述べた『競馬週報』と、月刊誌である『競週地方競馬』がある。前者が中央競馬を、後者が南関東の公営競馬をそれぞれ専門としている。さらには増刊扱いで『中央競馬成績総監(ダイジェクト)』『地方競馬成績総監(ダイジェクト)』が年2回出版されており、各号の巻末に掲載されていた成績一覧が改めてまとめられていた。おおよそ、現在『週刊競馬ブック』の巻末に載っているものから騎手のコメントを引いたものと考えれば間違いない。これは中央・地方どちらも一部ではあるが新橋のGate.J図書コーナーに保存されているので、物好きな方は一度見に行ってみて欲しい。

 『昼夜通信』『競馬週報』『競週地方競馬』においては、相互に同時掲載された記事も多い。だがそれぞれの特化分野、「馬事政治」「中央競馬」「地方競馬」に関する記事は転載されなかったことも多く、その関係は掴みがたい。今後の検討課題であろう。

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<参考画像>

1964年11月24日発行の『競馬週報』と、1967年12月号の『競週地方競馬』の表紙。縁色は『週報』の緑に対して『地方競馬』が青と塗り分けられている。表紙はそれぞれ3冠を達成したシンザンヒカルタカイの口どり写真。

昭和41年上半期の『地方競馬成績総監』の表紙

1971年11月の成績まとめ。この月以降は中央版と同じ書式に変わった。

※サイズかなり大きいです。
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