三冠馬とはなにか?

言うまでもないことだが、三冠馬とは最強馬のことではない。

歴代の三冠馬を見渡しても、セントライトは一線級の古馬とのハンデ戦で数個の黒星を献上しており、シンザンが調整代わりのOP戦で3度2着に敗れたことは広く知られている。シービーとブライアンなど、それぞれ理由は違えども古馬になってからは、その名にふさわしい戦績を残せず苦しんだ。ルドルフとディープインパクトは、おそらくことクラシック・ディスタンスにおいて日本競馬史上最高峰の評価を与えられるべき名馬であるが、この両頭すら全戦全勝というわけではない。三冠馬の敗北それ自体には、大きな問題が生じるわけではないだろう――なにより、我々は馬券を通じて、どの馬が勝ち、負けるかを自由に夢見る権利を与えられている。

 だが、一方で三冠馬はたんなるG1・3勝馬でもない。ひとまずはそういうことにして、日本の中央競馬ではこれまでやってきた。春のクラシックともなればスポーツ新聞の大活字が一面を飾り、皐月賞が終われば、もう、さっきの大負けに性懲りもしないアホどもが、この勝ち馬がダービーで勝てるかどうか、という話題で賑々しく1ヶ月間を盛り上がる。興行的な側面であれ、競馬人の中にある名誉の感覚であれ、そこには三冠競走が持つある種の権威が確かに存在している。だからこそ、日本競馬史上7頭しか存在しない三冠馬ともなれば、当然その身に背負う期待は、毎年現れる年度代表馬などよりも大きい。競走馬は、どんな駄馬であっても騎手の他に馬券購入者の希望を背負わされているのだが――少なくとも、私は未だかつて全式別無投票という例を見たことはない――三冠馬はその頂点にあって孤高を見つめ競馬を走ることを義務づけられているのである。我々が三冠馬を特別視することがあるならば、それはこの偶像性があるからに他ならない。

 それでは、先日の天皇賞でのオルフェーヴルの惨敗において、語られるべき問題とはなにか?おそらくは彼一人に全てを帰するのは誤りなのだろうが、やはり鞍上の池添騎手を挙げぬ訳にはいかぬ。デビュー以来、三冠を制するまで共に歩んできながら、菊花賞ゴール後の珍事に見られるように、決して人馬一体というわけではなかった。それは池添騎手自身がなにより承知していたはずであり、そのことから来る引け目・不安のような感情も、またわからないでもない。そこに前走、あの世紀の大逸走が起こり、「次失敗すれば、後はない」という所まで追い込まれてしまう。そして悲しむべきかな、昨日のレースの騎乗では、そのトラウマを意識する姿がたしかにありありと見て取れた。なるほど、「通常ならば」あの位置取りからでもオルフェーブルは届く力を持った馬である。その力を信じて「いつも通りの位置に」陣取り、がっちりと折り合い、仕掛け時をじっと待つ。それは池添騎手からすれば、今までそれだけはぶれることのなかった、愛馬の力への真摯な信頼だったのかも知れない。だがそれは、果たして他馬を顧みず強さに奢った、守りの競馬ではなかっただろうか。表と裏、奇しくもあの日、絶対に失敗できないレースでの出来事。競馬とはかくも恐ろしい。

 なるほど、競馬ファンならば馬場への適性がどれだけ競馬に影響を与えるかを知っている。新たな馬装、体調面での不安。今回は仕方がない、と片付けることもできよう。しかし、三冠馬の背負っている意味を考えるならば、陣営はあの状態で出走させ、また騎乗させるべきではなかった。「降ろされるかもしれない」だの「凱旋門賞へ向けて」などというのは、たかだか一個人の感情でしかない。歴代の三冠馬が築いてきた、全ての競馬ファン、競馬人の間に持つ価値と、レースにあたって受けるだろう圧倒的な支持についてすこしでも考えることができたならば、そのような姿勢で三冠馬オルフェーヴルに携わることがあっていいわけがないはずだ。ましてやあのような覇気に欠けるレース運びを行っておいて、やれ馬場がどうだの展開があれやだの言い訳を並び立てるのは、あらゆる意味において犯罪的な行為であろう。

 もっとも、早さと運と強さを兼ね備えた三冠馬、という性格はもはやその前提からして変わってしまってた。とりわけ近年スローからの瞬発力勝負ばかりの菊花賞は、レースの性質自体がかつてとは大きく異る。春はNHKマイルカップを挟み、秋は距離への不安から天皇賞・秋へと向かう、より「近代的な」ローテーションを取る競走馬は、今後増えることはあっても減ることはあるまい。世界的に見ても、北米大陸はまだしもとして、欧州諸国の競馬ではもはや三冠競走という概念自体が骨董品のような扱いになって久しい、というのはよく聞く話だ。日本国内の地方競馬でも、統一グレード競走導入に伴い三冠競走も再編成が計られ、結果的に地元馬にとってはひとつの路線として機能しづらくなってしまったところもあれば、三歳夏以降に転厩してくる中央下がりとレベル的に太刀打ちできないがゆえに、なんの権威も持たないまま惰性で重賞として施行されている、そんな三冠競走も数多い。「三冠」に権威と偶像を見出す心性は、少なくとも中央競馬ファンが思っている以上に容易く希薄化してしまうものであり、今後ますます危ういものとなっていくことは避けれないのだろう。そして今回のオルフェーヴルの敗退が、その一押しとなってしまいはしないか。一抹の不安を覚えざるを得ない。